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城名 | 宇陀松山城(別名:秋山城、神楽岡城) | ||
住所 | 〒633-2114 奈良県宇陀市大宇陀春日ほか |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 秋山氏 | |||
築城年 | 南北朝期 | |||
主な改修者 | 福島孝治(高晴) | |||
主な城主 | 秋山氏、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、 多賀秀種、福島孝治(高晴) |
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位置 | 北緯34度28分58秒 東経135度55分52.2秒 |
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地図 | 1 | 天守台跡 | ||
2 | 二ノ丸跡 | |||
3 | 三ノ丸跡 | |||
4 | 西ノ丸跡 | |||
5 | 本丸跡(麓) | |||
【歴史】 宇陀松山城(秋山城)は、沢氏、芳野氏と並び宇陀郡を領分した有力国人・宇陀三将の一人である秋山氏の居城として築かれ(その頃は秋山城と呼ばれていました)、少なくとも南北朝期には本拠を構えていたと思われます。 天正13年(1585)、豊臣秀長の大和郡山城入部により、秋山氏は伊賀に追放されました。その後、豊臣家配下の諸将(伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種)の居城となり、近世城郭へと改修され、豊臣政権下で大和郡山城や高取城と並び、大和国支配の要となっていたといいます。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、多賀秀種は西軍に属したため改易となり、その後、福島正則の弟である福島孝治(高晴)が入城しました。その際、城には大規模な改修が加えられ、城下町の整備も進み、名を「松山」と改めました。 しかし、元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣方に内通した嫌疑をかけられて福島孝治(高晴)は改易され、小堀遠州と中坊左近秀政によって城も破却されました。 福島氏改易後、宇陀には織田信長の二男・信雄が入り、以降、高長・長頼・信武と織田氏が続きます。 当初は長山丘陵付近に構えた長山屋敷が藩政の中心でしたが、寛文11年(1671)に春日神社西側に向屋敷、貞享2年(1685)に春日神社北側に上屋敷が造営され、藩政の中心が移りました。 4代80年にわたり栄えた織田家宇陀松山藩でしたが、4代・信武の代に至り藩の財政は窮乏し、打開策をめぐって重臣が対立。元禄7年(1694)、信武は重臣の生駒三左衛門、田中五郎兵衛を討ち果たすが、自らも自害するという、いわゆる「宇陀崩れ」が起こり、信武の子・信休への家督相続こそ認められたものの、翌元禄8年(1695)、織田家は丹波国柏原へ減移封となり、宇陀松山藩は廃藩となって、以後は幕府領になりました。 城跡は大宇陀の市街地の東側にそびえる古城山一帯に存在し、曲輪跡や空堀、石垣などが残されています。また、城下には大手筋の西口関門が現存します。 近鉄大阪線榛原駅からバス大宇陀行、西山下車徒歩10分で春日神社登城口。 【感想】 城址は整備されているので登りやすい。登城道を進むと大規模な横堀から雀門跡、その後は枡形が連続し続く大手口がある。大手口からすぐに本丸へと進むことも可能だが東側には大門跡なども見ることが出来る。天守郭下の横堀には破却時の石垣を見ることが出来、破却前は総石垣で作られていたのであろうと推察できます。 |
続日本 100名城 スタンプ |
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スタンプ 設置場所 |
まちづくりセンター「千軒舎」 | |||
登城日 | 一回目:2017年5月5日(金) 二回目:2018年10月8日(月) |
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LINK | 宇陀市観光サイト-宇陀松山城- | |||
宇陀松山城-Wikipaedia- | ||||
城主家紋 | 【楓 葉】 (宇陀神戸社の神主家) 秋山氏家紋 |
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【沢瀉】 (出自不詳) 福島氏家紋 |
【松山西口関門(通称:黒門)跡】 松山城の西門にあたる。門の付近は防備上から門口の橋詰めで道路を直角に曲げ、門に入ってからも道路が直角に折れている。 |
【松山西口関門裏側】 形状は高麗門 |
【春日神社参道】 登城口のある春日神社への入口 |
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【春日門跡】 | 【春日門跡】 | 【春日門枡形】 | |
【春日神社参道(登城道)】 | 【春日神社参道(登城道)】 | 【春日神社の手水横の抜け穴】 | |
【抜け穴】 昔から、秋山城の天守からの抜け穴があり、その出口が春日神社にあると云われており、これがその抜け穴と伝えられていますが、現在は途中で埋まっています。 |
【登城口】 | 【登城道】 | |
【登城道と指標】 | 【登城道】 | 【登城道】 目の前が開けると何やら工事中、ここに駐車場でも作るのでしょうかね? |
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【登城道】 2回目に訪れたら別の登城道に・・・ 車で登れるようになるようですね。 |
【登城道】 | 【登城道】 切通し道の様になっています。 |
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【登城道左側の腰郭】 | 【登城道】 | 【横堀】 深さは7m程度ある大規模なものです。 |
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【土橋】 | 【横堀】 | 【横堀の上より望む雀門跡】 | |
【横堀】 | 【横堀と土橋】 | 【雀門跡(南西部虎口)】 | |
【現地調査時の雀門跡(南西部虎口)】 | 【雀門跡(南西部虎口)】 | 【雀門上付近の隅石】 | |
【雀門上部石垣】 | 【雀門跡(南西部虎口)】 枡形を形成していることがわかります。 |
【雀門跡から続く城道】 | |
【城道脇の窪みと石垣】 この窪みが何であるかは不明だが石垣で囲まれていた。ここに井戸でもあったのであろうか? |
【雀門上部の枡形(大手口)】 | 【大手口】 | |
【大手口枡形】 | 【本丸下】 | 【本丸下より見た天守郭】 | |
【本丸虎口部】 | 【天守郭南側下横堀】 | 【天守郭の石垣】 | |
【天守郭南西側切岸と横堀】 | 【天守郭東側切岸】 | 【天守郭南東側下の横堀】 | |
【天守郭東側下の横堀】 | 【天守郭東側石垣】 | 【大御殿跡からみた大門跡(南東虎口部)】 大門御東西両脇には櫓台の石垣積みが残っている。 |
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【大門跡(南東虎口部)】 | 【大門跡より見た二ノ丸跡】 大門には、城東側からと二ノ丸裾を巡る通路が集まります。二ノ丸は正面の木々が生い茂っている部分になります。 |
【二ノ丸跡より見た大門跡・大御殿跡・天守郭】 大門の左右に通路があることが良くわかる。左側(西側)が二ノ丸裾を巡る通路。右側(東側)が城東側の通路へとつながる。 |
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【現地調査時の大門跡(南東虎口部)】 | 【大門西側通路】 すぐに左に曲がっている。 |
【大門西側通路】 この箇所にも石垣が見られます。 |
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【大門東側通路から見た御加番跡(東側)】 | 【御加番跡(東側)より見た大御殿跡・天守郭跡】 | 【御加番跡(東側)より見た竪堀・天守郭跡】 | |
【御加番跡(東側)下の東側通路】 | 【天守郭東側下横堀】 堀の中には破却時の石垣が残っています。 |
【御加番跡(東側)】 | |
【天守郭北東部切岸】 | 【天守郭北側下横堀】 | 【天守郭北東部石垣】 | |
【天守郭下北側の腰郭】 破却時の石垣がゴロゴロしています。 |
【天守郭北側石垣】 | 【本丸北側切岸】 | |
【天守郭南側下より見た本丸跡】 | 【本丸虎口】 | 【本丸虎口石垣】 | |
【本丸枡形虎口】 | 【本丸・本丸御殿跡】 | 【本丸御殿復元図】 | |
【本丸・本丸御殿跡】 | 【本丸御殿の礎石】 | 【天守郭】 | |
【天守郭】 | 【天守郭付櫓石垣】 | 【天守郭】 | |
【本丸虎口】 | 【天守郭跡】 天守に相当する多重の建造物が存在したと思われます。 |
【天守郭跡】 | |
【天守郭跡】 | 【天守郭北西部下】 横堀が囲うようにあるのがわかります。 |
【天守郭からの眺望】 | |
【御加番跡(西側)】 本丸西側下には御加番跡があります。 |
【御加番跡(東側)から見た大手口】 | 【大手口付近より見た御加番跡(西側)】 | |
【本丸北側下】 | 【石景庵入口】 この奥に城の石垣(門跡)があります。 |
【石垣(門跡)】 | |
【石垣(門跡)】 | 【石垣(門跡)】 | 【石垣(門跡)】 | |
ジャンル:和食 店名:大和牛 丼の店 件-kudan- 住所:〒633-2161 奈良県宇陀市大宇陀上新1923-1 TEL:0745-83-2680 営業時間:11:30〜19:00 定休日:月〜水曜日 大和牛の丼が手ごろに頂けるお店。 普通、大和牛丼500円、牛増しで”スペシャル丼”1,000円、牛増し増しで”もっとスペシャル丼”1,400円、そして各丼の定食があります。 牛はトロトロ熱々で美味しく頂けます。 写真はスペシャル丼定食 1,400円。 |