城名 信貴山城(別名:信貴城、磯城)
住所 〒636-0923
奈良県生駒郡平群町信貴山
入場時間
入場料
指定文化財 平群町指定文化財
城郭構造 山城
天守構造 四層の天守櫓
築城主 木沢長政
築城年 天正5年(1536)
主な改修者 松永久秀
主な城主 木沢長政、松永久秀
位置 北緯34度36分45.85秒
東経135度40分6.01秒
地図 本丸跡
天守台跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
松永屋敷跡
【歴史】
奈良県生駒郡平群町にあった山城で戦国時代の下克上の代表的な人物、松永久秀の居城。

天文5年(1536)、河内国守護職であった畠山氏の家臣木沢長政が信貴山城を築いたが、天文11年(1542)に長政は討ち死にし、城は廃れた。

永禄2年(1559)から翌年にかけて、この城を大改修したのは松永久秀であった。標高433mの信貴山は河内国と大和国を結ぶ要衝の地で、山上に東西・南北とも500mを超す放射状連郭の城を築いた。

久秀は足利幕府の三管領筆頭細川氏の重臣三好氏の家臣で、三好氏が主家の細川氏をしのいで畿内を支配するようになると、久秀も大和一円に勢力をのばした。主家の三好氏にとってかわるため、三好一族間に反目を引き起こすなど、久秀はさまざまな策謀をめぐらした。

永禄7年(1564)に三好長慶が亡くなると、久秀は畿内随一の実力者にのしあがった。久秀は一時織田信長に臣従したが反旗を翻し、天正5年(1577)に信長の大軍に攻められ自害、信貴山城は落城した。

現在の信貴山山腹の朝護孫子寺の空鉢御法堂が信貴山城の本丸跡で、「信貴山城址」の石碑と実測図が描かれた案内板が設置されている。

JR関西本線王子駅または近鉄生駒線信貴山下駅からバス10分。
(「日本の城がわかる事典」より)

【感想】
城全体が朝護孫子寺になっているため遺構は残念ながら殆どないが、北側には松永屋敷跡がありこちらの遺構は状態も良く残っているため頂上まで行って北側の松永屋敷跡をじっくり見た方が良い。

 
登城日 2017年10月8日(日)
LINK 平群町HP〜信貴山城〜
 信貴山 朝護孫子寺公式HP
信貴山城-Wikipaedia-
城主家紋 【蔦】
(出自不詳)
松永氏家紋

                      

 探訪

※説明板より
【信貴山遠景】 【信貴山遠景】 【信貴山城登城口】
【朝護孫子寺 多宝堂】 【登城道(空鉢護法堂参道)】 【登城道(中腹)】
【登城道】 【二ノ丸虎口】 【二ノ丸虎口】
【二ノ丸虎口(二ノ丸跡より)】 【二ノ丸跡】 【城址碑と説明板】
【本丸跡から見た眺望】 【本丸跡に建つ空鉢護法堂】 【天守跡(空鉢護法堂】
ここに日本初の天守が建っていた。
【信貴山山頂】 【二ノ丸跡より松永屋敷へ】 【城道】
【削平地】 【堀切】 【堀切】
【堀切】 【松永屋敷跡・上段】
堀切を登るとそこは土塁に囲まれた松永屋敷の上段部でした。
【松永屋敷跡・上段】
【松永屋敷跡・中段】 【松永屋敷跡・上段の切岸】 【松永屋敷跡・中段からみた上段切岸】
【松永屋敷跡・中段に設置された通路】 【松永屋敷跡・中段より見た上段】 【松永屋敷跡・説明板】
【松永屋敷跡中段・土塁】 【松永屋敷跡・中段(説明板)】 【松永屋敷跡・下段】
【松永屋敷跡・下段】 【松永屋敷跡・下段】 【松永屋敷跡・下段】
【松永屋敷跡・下段にある虎口】 【松永屋敷跡・下段】 【松永屋敷跡・中段(北側)】
【松永屋敷跡・中段(北側)】 【松永屋敷跡・中段(北側)より見た下段】 【松永屋敷跡・下段にある虎口下】
【松永屋敷跡・下段にある虎口下】 【松永屋敷跡下】 【松永屋敷跡・下段】
【松永屋敷跡下段を守る侍(木製)】 【松永屋敷跡入口】
ここを上がると侍のある下段にでる。
観光〜朝護孫子寺〜
【機械仕掛けの張子の虎】 【境内案内図】 【聖徳太子騎馬像】
【境内】 【境内】 【信貴山城・登城道より】
【玉蔵院】 【玉蔵院からの眺望】




Back



inserted by FC2 system