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城名 | 兵庫城(別名:池田城、片桐陣屋、兵庫陣屋) | ||
住所 | 〒652-0844 兵庫県神戸市兵庫区中之島 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 平城、海城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 池田恒興 | |||
築城年 | 天正9年(1581) | |||
主な改修者 | 片桐且元 | |||
主な城主 | 池田恒興、片桐且元 | |||
位置 | 北緯34度39分57.22秒 東経135度10分23.36秒 |
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地図 | 1 | − | ||
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【歴史】 天正7年(1579)荒木村重は有岡城にて主君の織田信長に反旗を翻し落城しますが、天正8年(1580)荒木村重は花隈城へ落ち延び、そこでも花隈城の戦いとなった。花隈城を落城させた池田恒興に西摂津が与えられました。 摂津国の大守になった池田恒興は、天正9年(1581)花隈城には入城せず兵庫津に城を築いた。 しかし天正11年(1583)池田恒興は、わずか2年で美濃国大垣城に移封され、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城した。呼称も兵庫城から片桐陣屋と称されていた。 元和元年(1615)大坂城落城後は尼崎兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には兵庫津奉行所が置かれた。明治6年(1769)、上知令により兵庫津一帯は天領となり、兵庫城址の陣屋が勤番所に改築された。 明治時代には勤番所が初代の兵庫県庁となり、伊藤博文が初代知事として赴任した。 明治6年(1873)まで外郭となっていた土塁が残っていたが市街地発展のため取り除かれ、翌明治7年(1874)に兵庫港が大幅に改修され、兵庫新川運河が作られたため兵庫城跡は破壊されてしまった。 2012年8月1日、城址跡に建っていた神戸市中央卸売市場跡地への大型商業施設出店における汚染土壌除去作業中に石垣や馬出跡、堀跡が発見されたが、埋め戻された。 【感想】 城址は新川運河を作るために削平され消失、また旧神戸市中央卸売市場跡には天守台の石垣も見つかっていたようで、遺構が埋め戻されたのは残念です。 |
登城日 | 2017年10月8日(日) | ||
LINK | 兵庫城-Wikipaedia- | |||
城主家紋 | 【揚羽蝶】 (清和源氏頼光流) 池田氏家紋 |
【城址碑】 | 【新川運河(城址跡)】 この運河を作るために遺構は消滅 |
【城址跡に建つイオンモール】 遺構(石垣)が出てきたものの埋め戻された。 |
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【兵庫運河の説明板】 | 【清盛くん】 平安時代には、平清盛によって経が島建設などの大修築工事が行われ日宋貿易の拠点となりました。 |
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【境内】 | 【兵庫大仏(盧舎那仏)】 この大仏は昭和19年(1944)に金属類回収令で国に供出されるまで日本三大大仏の一つに数えられた。 現在の大仏は平成3年(1991)に再建されたものである。 |
【兵庫大仏(盧舎那仏)】 | |
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【平清盛廟(平相国廟)】 十三重石塔は平清盛供養塔とされる。 |
【月輪影殿(本堂)】 京都東山の泉涌寺寺域の墓陵(月輪御陵)にあったものを昭和28年(1953年)に宮内省と九条家より移築されたもの |
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