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城名 | 新庄城(別名:新庄陣屋) | ||
住所 | 〒639-2147 奈良県葛城市屋敷山302 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 陣屋 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 布施氏 | |||
築城年 | 不明 | |||
主な改修者 | 桑山氏 | |||
主な城主 | 桑山一晴、永井直圓 | |||
位置 | 北緯34度29分12.3秒 東経135度42分50.9秒 |
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地図 | 1 | − | ||
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【歴史】 新庄城は4世紀頃に築かれた前方後円墳を利用した城であり、埋葬部分は築城の際に破壊されている。築城年は不明であるが、大和国葛下郡(現在の大和高田市や葛城市周辺)を治めていた国人・布施氏が、本拠である布施城の麓に居館(里の館)として築いたと考えられている。 大和国は興福寺の勢力が強い国であり、大名ではなく興福寺が守護を務めている程であった。 だが、平安時代末期より興福寺内部で一乗院と大乗院が対立しており、布施氏は筒井氏と同じ一乗院門跡であったため、行動を共にすることが多かった。そのため、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に筒井氏が伊賀へ国替えとなるとそれに従った。 布施氏の旧領には紀伊和歌山城2万石の桑山一晴が新庄に移封し、新庄藩2万石が立藩しました。 桑山氏は布施氏の館跡を改修して陣屋を築いたが、天和2年(1682)寛永寺においての4代将軍の徳川家綱の法会の際、勅使に対して不敬があったとして改易されました。 桑山氏の後、譜代の永井直圓が1万石で新庄に入りますが、後、文久3年(1863)、第8代藩主永井直壮の時に、新庄の南方にある櫛羅に移転し、以後、櫛羅藩となりました。 現在、城跡は屋敷山公園となっている。遺構は無いが古墳の形状が残っているため、面影を偲ぶことができる。 【感想】 城としての遺構というより古墳としての遺構が残る。古墳の城に御殿があったようだが残念ながら上部は立入禁止になっており行くことが出来なかった。古墳時代の堀をそのまま利用した池があるので城の面影は何となく想像できる。 |
登城日 | 2017年11月25日(土) | ||
LINK | 新庄城跡(屋敷山古墳) | |||
城主家紋 | 【総 角】 (三善氏族/置始氏後裔?) 布施氏家紋 |
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【桔 梗】 (藤原氏秀郷流結城氏後裔) 桑山氏家紋 |
※説明板内-その後の屋敷山古墳の利用(慶長8年(1603)年の絵図による)-より |
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【新庄城(屋敷山古墳)全景】 前方後円墳を利用した城跡。 |
【新庄城址碑と説明板】 | 【説明板】 | |
【新庄城址主要部】 残念ながら立入禁止になっており、上には行けませんでした。ジョイ宇部は削平された平坦部らしいです。 |
【古墳の前方部分】 | 【曲輪跡】 この部分には蔵があったと思われる。 |
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【城西側の堀跡】 明確な表示はないが、構造的に堀跡と思われる。 |
【曲輪跡】 この辺りも蔵跡だったと思われる。 |
【堀跡】 | |
【堀跡】 | 【堀跡】 | 【屋敷山古墳出土の竪穴式石室天井石】 |