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城名 | 古橋城(別名:古橋御坊) | ||
住所 | 〒571-0064 大阪府門真市御堂町8 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 不明 | |||
築城年 | 不明 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 三好氏、根来寺玉宝 | |||
位置 | 北緯34度44分33.2秒 東経135度35分47.0秒 |
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地図 | 1 | − | ||
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【歴史】 元は平安時代からあったとされる普賢寺の一部に、本願寺勢力が築いたのが願得寺とのこと 戦国期の永禄11(1568)年に織田信長が入洛すると、河内は三好長慶死後争っていた畠山昭高と三好義継に和解をさせ、昭高に飯盛山城。義継には高屋城を与えて河内を統治します。その頃、信長に対し反攻を窺がっていた三好三人衆は、信長が元亀元(1570)年6月「姉川の戦い」で、浅井・朝倉連合軍と戦っている隙に翌7月阿波から畿内に再進出。野田城などを中心として信長軍と対立。 古橋城には守将の来寺玉宝が入っており、昭高、義継の兵数百名が信長方で戦い、戦死したとつたわります。9月になり信長が来援し、三好三人衆は野田砦 福島砦に追い込まれますが、もう一押しで三好勢が崩れるというとき、信長勢の後から石山本願寺勢に攻撃を仕掛けられます。 これより10年続く石山合戦が始まります。 天正3年(1575)の信長による石山本願寺包囲網の付城のひとつとして「古橋城」の名が挙がっています。その後いつごろ廃城になったのかは不明ですが天正八(1583)年石山合戦も終わっり、この頃に廃城となったと考えられます。 【感想】 城としての説明も遺構も何なく、当時を思い起こすのは難しいかも知れません。 |
登城日 | 2018年2月20日(火) | ||
LINK | − | |||
城主家紋 | − | − |
【願得寺・山門】 | 【願得寺・太鼓楼】 | 【願得寺・本堂】 | |
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【願得寺本堂と本願寺蓮如上人像】 | 【願得・山門】 | − |