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城名 | 七尾城(別名:益田城、益田七尾城) | ||
住所 | 〒698-0017 島根県益田市七尾町 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡(益田氏城館跡として) | |||
城郭構造 | 連郭式山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 益田兼高 | |||
築城年 | 鎌倉時代 | |||
主な改修者 | 益田藤兼 | |||
主な城主 | 益田氏 | |||
位置 | 北緯34度40分19.1秒 東経131度51分49.6秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 二の段 | |||
3 | 馬釣井 | |||
4 | 厩の段 | |||
5 | 千畳敷 | |||
【歴史】 七尾城は中世400年間にわたり西石見に勢力を誇った益田氏歴代の居城でした。 この城は七尾山全体に築かれており、北方を流れる益田川に向かって開く東西二つの丘陵を中心に大小40あまりの曲輪を設けた県下屈指の堅城でした。現在でも、曲輪や敵の侵入を防ぐ堀切、土塁、馬釣井と呼ばれる石積みの井戸跡が残り、当時の姿を良くとどめています。 南北朝時代にはすでに築城され、延元元年(1336)に南朝方の三隅軍が「「北尾崎之木戸」に攻め寄せた記録が益田家文書に残っています。 発掘調査の結果、戦国時代末期には、毛利氏の攻撃に備えて大改修され、城の中心部には礎石建物が建ち、益田氏の当主とその家臣が城内に居住していたことが明らかになりました。 慶長5年(1600)、益田氏20代元祥が、関ケ原の戦に敗れた毛利氏の家老として長門国須佐に移ると七尾城は廃城となりました。 (説明板より) 【感想】 どの峰の曲輪も途中で深い堀切に出くわし下に下りる時間がなく峰の末端までは行けなかった。 深い堀切を下りるための道を探しましたがロープでもないと無理なところもあります。 この城全体を見るためには木々が枯葉となる秋が良いでしょう、そして時間は2時間以上は必要かと思います。 |
登城日 | 2018年4月30日(月) | ||
LINK | 七尾城(石見国)-Wikipedia- | |||
城主家紋 | 【九枚笹】 (藤原氏道兼流御神本氏) 益田氏家紋 |
※説明板より |
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【堀跡】 | 【堀跡】 | 【説明板】 | |
【説明板】 | 【住吉神社・登城口】 | 【参道横にある城址碑兼案内板】 | |
【登城道】 熊が出るそうです。 |
【登城道】 | 【住吉神社・山門】 この門を潜り左後に登城口がある |
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【住吉神社・本殿】 | 【登城口】 | 【本丸へ続く登城道】 | |
【分岐点】 右:本丸跡、左:尾崎丸・千畳敷 |
【分岐点の本丸方向】 | 【厩の段】 | |
【厩の段から見た本丸方向】 尾根伝いは段々になっている |
【馬釣井の指標】 この方向が大手道になる |
【馬釣井】 井戸は石積構造になっている |
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【城道】 | 【大手の帯曲輪】 | 【大手の帯曲輪説明板】 | |
【城道の分岐点】 左:本丸、右:艮の出丸方向 |
【本丸側城道】 | 【厩の段、大手の帯曲輪方向】 | |
【二の段虎口】 | 【二の段跡】 | 【二の段の建屋跡】 | |
【二の段建屋跡裏の堀切】 | 【二の段跡】 | 【本丸方向】 | |
【本丸と二の段の境】 二の段から1mほど高い場所が本丸になる。 |
【本丸跡】 | 【本丸説明板】 | |
【本丸跡】 | 【本丸南側土塁】 | 【本丸下の堀切】 この堀切も深く、下りて行くのもきつそうです。この先に畝状空堀群があるようです。 |
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【本丸跡からの眺望】 | 【艮の出丸方向へと続く城道】 | 【二の段北側の堀切】 | |
【堀切の北側曲輪の虎口と土塁】 | 【曲輪跡】 | 【曲輪跡】 | |
【城道】 | 【曲輪跡】 | 【曲輪端】 この先に艮の出丸があるそうだが、時間もなくここで折り返しました。 |
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【尾崎丸・千畳敷方向】 | 【太鼓の段・説明板】 | 【千畳敷との段差】 |
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【千畳敷跡】 | 【千畳敷跡】 | 【千畳敷北側堀切】 | |
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【大手門(移築門)】 現在は医光寺の総門になっている。 |
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