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城名 | 八橋城(別名:大江城) | ||
住所 | 〒689-2301 鳥取県東伯郡琴浦町八橋 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 町指定史跡 | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 行松正盛 | |||
築城年 | 大永4年(1524)以前 | |||
主な改修者 | 不明 | |||
主な城主 | 行松氏、吉田氏(尼子氏家臣)、杉原氏(毛利氏家臣)、南条氏、中村一栄、池田氏、津田氏 | |||
位置 | 北緯35度30分12.6秒 東経133度40分23.8秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 二ノ丸跡 | |||
3 | 石垣 | |||
4 | 土塁 | |||
5 | − | |||
【歴史】 この城山は山陰線の開通により分断されたが八橋(やばせ)城跡である。中世、行松氏の居城で大江城とも号した。 大永4年(1524)ここを攻略した尼子経久は城番として吉田左京亮を置いて伯耆支配の拠点とした。その後、尼子氏を滅ぼした毛利氏は杉原盛重に城を守らせた。天正年間に入り織田氏と対決するようになると、八橋城は山陰での毛利勢の中心拠点として重要視され、城の整備が進められた。「伯耆民談記」によれば東に大手を構え、本丸と二ノ丸があり周囲に堀を巡らせていた。豊臣治下では南条氏が領有したが、関ケ原の合戦後の徳川統治下で一時期、中村氏、市橋氏が封ぜられた。 元和3年(1617)池田光政が鳥取藩主になったとき一藩一城制で廃城となる。寛永9年(1632)池田光仲入国後、津田氏が八橋を領有し、以後明治維新まで陣屋を置いて治めた。 津田氏の菩提寺体玄寺(南西200m)の西丘陵上に津田家の墓所がある。雄大な墓碑11基が往時を偲ばせている。 (説明板より) 【感想】 八橋城は、八橋駅そばにありますが、この山陰線により城址は分断され、南側は消失してしまっています。かろうじて本丸、二ノ丸が残り、石垣も僅かですが確認が出来ます。 本丸には城と関係のない巨大が碑が建っており、遺構が壊されている可能性が高い。史跡に関係のない碑しかもこんな巨大なものを建てるのかが信じられない。 |
登城日 | 2018年5月2日(水) | ||
LINK | 八橋城-Wikipedia- | |||
城主家紋 | 【夕 顔】 (宇多源氏 佐々木氏流/塩冶氏流) 南条氏家紋 |
【八橋城跡】 | 【登城口と城址碑】 | 【登城道】 | |
【石垣】 登城道左脇にあるが、夏場などは草木が生い茂り簡単に見ることが出来ない。草木をどうかしてようやく拝めました。 |
【二ノ丸跡】 周囲に土塁が見られる。 |
【二ノ丸跡の稲荷神社】 この場所に櫓でも建っていたかのような小高い場所にある。 |
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【二ノ丸跡の土塁】 | 【本丸跡】 | 【本丸跡】 狭い本丸跡に巨大な酒井片桐飛行殉難碑が建っている。これは全く城には関係のないものです。 |
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【本丸からの眺望】 生憎の天気ではあったが日本海を望む眺望は最高です。 |
【八橋城南側の山陰線八橋駅ホーム】 この山陰線により城の南側は消失してしまっている。 |
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