城名 三雲城(別名:吉永城)
住所 〒520-3222
滋賀県湖南市吉永251
入場時間
入場料
指定文化財 滋賀県指定史跡
城郭構造 山城
天守構造
築城主 三雲実乃
築城年 長享元年(1487)
主な改修者 三雲行定
主な城主 三雲氏
位置 北緯34度54分10.47秒
東経132度4分23.97秒
地図 郭1跡
郭2跡
郭3跡
郭4跡
郭5跡
【歴史】
三雲城は、長享元年(1487)、足利義尚率いる幕府軍の攻撃を受けた観音寺城主六角高頼が三雲典膳実乃に命じて築かせた。三雲氏は武蔵七党児玉党から分かれた浅見氏を祖とし、南北朝期頃甲賀に進出して六角氏に仕え三雲に移住して三雲氏を称する様になった。そして子の行定の代には下甲賀・野洲郡・栗東郡を支配し甲賀六家と称される有力国人に成長し、三雲城は行定の代に整備拡張された。

永禄6年(1563)に六角義治が家臣を殺害したことから、観音寺城から追い出されるという事件が起こった(観音寺騒動)。この際にも、六角義賢(承禎)・義治父子は、三雲城に避難してきた。後に蒲生賢秀の仲介があって、義賢父子は観音寺城に復帰することが出来た。

永禄11年(1568)、織田信長の上洛の祭には、織田軍に敗れた六角義賢・義治父子がまたもや三雲城に逃れてきた。その後、観音寺城に復帰することはかなわず、甲賀をその拠点としてゲリラ活動をつづけていくこととなった。

しかし、信長の京都侵攻で家臣の佐久間信盛による攻撃を受け元亀元年(1570)に山裾にある三雲屋敷と共に三雲城は落城した。

六角氏が没落した後の三雲成持は、織田信雄・蒲生氏郷に仕え、江戸時代に入ると1千石の旗本として徳川幕府に仕えることになり、幕末まで家名を存続することが出来た一族であった。
(現地パンフレットより)

【感想】
猛暑の最中に登る城ではなかった(車での登城なら別)。駅からも意外に距離があり大沙川隧道を越えると公園がありその場所に簡単な説明板や道案内が出て来る。それに従って進むと住宅街を抜け山の登り口にたどり着きます。そこから車道を登っていくのですが日陰ないので辛いです。中腹まで行くとようやく登城口、大手道と八丈岩から周っていける道があります。大手道には近世の治水用石垣がありますがこれは無視しました。
八丈岩は昔見張り台を兼ねていただけあり、見晴らしが素晴らしいです。
この城を周って気が付きますがそこら中に見張り台があり、逃げ込む城として造られたのが何となく納得できる造りです。

 
登城日 2018年7月16日(月)
LINK 滋賀・びわ湖観光情報-三雲城-
城主家紋 【軍配団扇に一文字】
(武蔵七党児玉氏後裔)
三雲氏家紋

                      

 探訪

※説明板より
【三雲城遠景】
山頂付近移見える白っぽいものが八丈岩
【登城口にある説明板】 【登城口と城址碑】
ポストの様なものの中にパンフレットが入っています
【分岐点】
登城口入ってすぐに大手道(左)と八丈岩(右)に分かれる。左の大手道には近世の治水用石垣が見られる。
【八丈岩方向】 【登城道の途中の巨石】
八丈岩行くまでにも巨石が見られる
【八丈岩】 【八丈岩からの眺望】 【八丈岩】
【八丈岩】 【六角氏家紋の刻印石】
探してみたものの見つけることが出来ませんでした。20cm×20cmの紋があるそうです。
【馬の背道】
【郭5の土塁】 【郭5の土塁上】 【郭5(兵站地)】
【近代の採石場跡】 【郭1の切岸】 【郭1北・東辺の石垣】
【郭5(兵站地)】 【郭1へ続く城道】 【郭1の枡形虎口】
【郭1の枡形虎口】 【枡形虎口内・石切り矢穴列痕】 【枡形虎口の石垣】
【郭1の枡形虎口】 【郭1(主郭)】 【郭1の井戸】
【郭1の井戸】 【郭1の土塁】 【郭1の土塁上】
【郭1の竪堀群】
すっかり藪化していてよく見れませんでした
【郭1(主郭)】 【石切り矢穴の城石】
【山頂郭の石垣】
郭2の石垣と思われるが藪でほぼ見えず
【山頂部虎口】 【山頂部虎口】
左:郭3、右:郭2、直進郭4方向になる
【郭2方向】 【郭2】 【郭2からの眺望】
【郭2】 【郭2】 【郭2下の石垣】
【郭3方向】 【郭3の城道】 【郭3】
【郭4方向】 【郭4方向】 【郭4へ続く城道】
【堀切】 【堀切】 【郭4への指標】
【郭4】 【郭4の城道】 【郭4】




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