城名 野田城
住所 〒553-0004
大阪府大阪市福島区玉川4丁目
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 浦上村宗
築城年 享禄4年(1531)3月
主な改修者 三好三人衆(三好長逸・三好政康・ 岩成友通)
主な城主 浦上氏、三好三人衆
位置 北緯34度41分19.0秒
東経135度28分42.4秒
【歴史】
野田城はもとは室町幕府管領として当時の政権を中枢を担った細川高国と同盟関係にあった浦上村宗(文献によっては三好方の浦上掃部)が、享禄4年(1531年)に築城したのが始まりとされます。

そののち、元亀元年(1570)7月、畿内での勢力奪回をねらう三好三人衆(三好長逸・三好政康・ 岩成友通)らが1万3千の兵を率いて阿波から泉州に上陸、27日、天満が森に陣取り、さっそく野田・福島の砦の補強工事を行い、野田城に8千人の兵が籠城し、それに呼応した石山本願寺法主顕如がこの年9月6日、諸国の門徒に対し、信長打倒の武装蜂起を呼びかけ同月12日、一斉に決起したため信長軍は苦戦し、野田・福島方面から撤退せざるをえなかった。

しかしその後、天正4年(1576年)、信長の猛攻により野田城は落城(「野田城・福島城の戦い」)し、福島城と共に織田方の手に渡り第一次木津川口の戦い、第二次木津川口の戦いでは重要な陣地となっていたようです。

それ以降40年間確かな史料には姿を見せないので、一旦廃城になった可能性も指摘されている。

次に姿を見せるのは慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の野田・福島の戦いで、『西成軍史』によると下福島の五分一に三重の柵と櫓を造り大野治胤の兵800を配置し、上福島にも砦を設け、宮島兼与の兵2,500で守備し、野田にあった新家の船倉を守備していたとされる。

この『西成軍史』では「棚楼(櫓)を五分一に設け」たとし、新しく築かれたと読み取れるので、安土桃山時代に築かれ、野田城・福島城の戦いで廃城になっていた城を、大坂の役で再利用したとも考えられる。『幻の野田城を探る』によると、少なくとも慶長20年(1615年)の大坂夏の陣以後には完全に廃城になったとされている。

現在、同地域では極楽寺、野田恵美須神社などに一部城の名残らしきものが見られるが、都市化されており城跡を思い浮かべるものはほとんど残ってなく城址碑があるのみである。


【感想】
JR大阪環状線野田駅、大坂メトロ千日線玉川駅から程近くになります。
極楽寺を目指すとマンションの入口に一つ、極楽寺に一つ城址碑があります。
そこには簡単な城址の説明が彫られていますが、読みづらいです。

登城日 2018年12月9日(日)
LINK 大阪市HP-野田城
Wikipedia-野田城-
城主家紋 【檜 扇】
(紀氏長谷雄流)
浦上氏家紋
【三階菱に釘抜】
(清和源氏小笠原氏流)
三好氏家紋

                      

                
探訪
【野田城址碑1】 【極楽寺】 【極楽寺】
【野田城址碑2】 【證如上人御旧跡と記された常夜灯】




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