城名 | 原田城 | |||
住所 | 〒561-0801 大阪府豊中市曽根西町4-4-15 |
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入場時間 | 開館時間:土、日曜日 正午〜午後3時30分 |
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入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 豊中市指定史跡 | |||
城郭構造 | 平山城、丘陵城郭 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 原田氏 | |||
築城年 | 鎌倉時代 | |||
主な改修者 | 織田信長方 | |||
主な城主 | 原田氏、三好長逸、中川清秀 | |||
位置 | 北緯34度46分23.18秒 東経135度27分46.57秒 |
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【歴史】 原田城は、北城と南城からなっており二ヶ所一城の城です。 原田氏は、公安元年(1279)に能勢一体に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(「多田神社文書」)に登城します。一方、北城は13世紀後半〜14世紀初頭のうちに築かれたことが、発掘調査で出土した遺物から推定されています。 康永3年(1344)に、原田氏は大炊寮の所領である六車御稲の年貢を横取りするなど、徐々にその力を蓄えていきます。15世紀中頃には原田一帯を支配する土豪に成長するとともに、室町幕府の管領で、摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれ、戦乱の世に巻き込まれて行くことになります。 天文16年(1547)、細川氏の内紛で細川氏綱側についた原田氏は細川晴元の大軍に攻められ、北城は落城しました。これにより北城は配乗し、荒廃していったことが推測されます。16世紀後半には南城の堀が掘削されていることから、これ以降、原田氏は南城を中心に活動していたとみられます。 また、荒木村重の乱では、織田信長方の古田織部と中川清秀が北城に陣を構えたようです。平成6年(1944)に行われた発掘調査からは、16世紀後半に大改修が行われ、一時的に城として使われたことが明らかとなっています。 慶長年間(1596〜1615)には、北城・南城とも廃城し、原田氏の多くは豊後直入(大分県竹田市)などへ移り、現地には土塁や堀跡、伝承だけが残されました。 【感想】 宅地開発が進む大阪にあって土塁だけも残っているのは奇跡的な物です。この土地を買い取り住居としていた羽室氏が庭の築山としてこの土塁を残したそうです。 現在は管理・運営がNPO法人とよなか・歴史と文化の会がしており、土日の正午から午後3時30分まで見学することができます。 |
登城日 | 2019年03月09日(土) | ||
LINK | 豊中市HP-原田城跡 | |||
Wikipedia-原田城 | ||||
城主家紋 | 【中川久留子】 (清和源氏頼光流) 中川氏家紋 |
【原田城・北城跡】 | 【原田城説明板】 | 【原田城・北城西側】 |
【出入口門】 | 【門自体が城跡碑になっている】 | 【土塁】 |
【土塁】 | 【土塁】 | 【土塁】 |
【土塁】 | 【土塁】 | 【土塁上部】 |
【土塁上部】 | 【原田城北城・西側傾斜面】 | 【原田城北城・西側傾斜面】 |
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【堀跡】 | − | − |