城名 新高山城
住所 〒729-0412
広島県三原市本郷町本郷・船木
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 小早川隆景
築城年 天文21年(1552)
主な改修者
主な城主 小早川隆景
位置 北緯34度25分12.6秒
東経132度58分32.0秒
【沿革】
小早川氏の祖、土肥実平、遠平父子は、源頼朝の平氏追討に当たって終始勲功をたて、はじめ備前、備中、備後の三国の守護の地位を与えられたが、安芸国沼田荘(沼田川流域一帯、蓮華王院領)の地頭職を得ると一族をあげて相模国から西遷して来た。

鎌倉・室町時代を通じて沼田小早川氏が本拠地とした山城は、沼田川対岸の高山城であったが、沼田小早川家を継いだ隆景は、これまで高山城の副塁であった新高山城の大改修を行ない、天文21年(1552)にここに本拠を移した。

依頼慶長元年(1596)に三原城に移るまでの45年間、この新高山城がが小早川氏の本拠地となった。

この城郭は、標高197.6mの新高山城の点検を利用した山城で東西400m、南北500mの全山を城塞としている。

山頂尾根を削平した本丸、二ノ丸、三ノ丸など各種の郭は60余に及ぶ広大なもので、城主や家臣の居館を山上にあげた中世山城から近世の城郭への過渡期を示す城郭である。


【感想】
小早川隆景が三原城に移る際に新高山城の石垣を持って行ったとされる城跡ですが、本丸や釣井の段周辺いは若干ながらも石垣が残っている。
城域は広いが、西ノ丸の下の紫竹丸、シンゾウス郭には行くことは出来なかった。


100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
本郷生涯学習センター
登城日 2019年5月3日(金)
LINK 備陽史探訪の会〜新高山城探訪〜
新高山城-Wikipedia
城主家紋 【三つ巴】
(桓武平氏良文流)
小早川氏家紋

                      


※案内板より(加筆有り)
【遠景】
左の山が新高山城、右の山が安芸高山城
【道標・経塚】 【登城口】
【登城口の説明板】 【一段目(下の段)の番所跡】 【一段目(下の段)の番所跡】
【二段目(中の段)の番所跡】 【二段目(中の段)の番所跡】 【二段目(中の段)の番所跡】
【鐘の段との分岐点 【鐘の段】 【鐘の段】
城山の南斜面中腹に半独立的な小丘をなしている郭。この鐘の段は、北方背後に土塁を設けた二郭、東側に大小二郭、西南側に三段の郭を配置している。
鐘の段を中心としたこれらの郭は、地形、縄張りなどからみて、中世初期の独立した山城(丘城)の形態をなしており、この部分の築城年代は古いものと思われる。
【鐘の段】 【鐘の段・土塁】 【鐘の段】
【鐘の段】 【鐘の段】 【鐘の段・横堀】
【鐘の段】 【三段目(軽石の段)の番所跡】
番所跡は軽石の段、中の段、下の段の三郭からなり、大手道を警護する番所が設けられていた所である。軽石の段の東方と西方にもそれぞれ東の番所、西の番所と呼ばれる郭が残っています。
【三段目(軽石の段)の番所跡の土塁】
【三段目(軽石の段)の番所跡】
この番所跡のみ土塁に囲まれている
【大手道】 【堀切】
【匡真寺跡】
小早川氏の菩提寺跡で、隆景は、天正5年(1577)亡父毛利元就の七回忌、亡母妙玖尼の三十三回忌に際して、ここに匡真寺(現在三原市宗光寺)を建立し、法会を盛大に営んだ。
寺跡は東西41m、南北72mに及ぶ広大なもので、全面に瓦片が散乱し、築庭を思わせる湧水池・築地塀の跡が残っている。
【匡真寺跡・湧水池】 【中ノ丸・坂虎口】
【中ノ丸(二ノ丸)跡】
本丸の北方に四段の郭からなる東ノ丸、井戸郭、五段の郭からなる中ノ丸、西方にも四段の中ノ丸の各郭が配置され、これらが二ノ丸の縄張りである。
中ノ丸の郭には随所に土塁を築き、曲輪を設けて防備を固めている。
また、北方の中ノ丸の広い郭には礎石の配置が一部見られ、規模の大きな建物があったことが知られる。
【中ノ丸跡】 【中ノ丸下の横堀】
【中ノ丸切岸・横堀と土塁】 【石弓の段跡】 【西ノ丸跡】
【西ノ丸跡】 【西ノ丸跡】 【西ノ丸・北ノ丸(三ノ丸)跡説明板】
中ノ丸に続いて西方に配置された四段が西ノ丸で、これからさらに北西にのびる北ノ丸の五郭が連なっている。これらが三ノ丸の縄張りである。
西ノ丸の東端の郭は石弓場と呼ばれるが、それ自体が二ノ丸を守る箱薬の堀切の役割を果たしている。
また、北ノ丸の中心的な郭には石積みの方形基壇が残っており、社寺に類する建物があったと思われる。
【北ノ丸跡】 【中ノ丸の建物跡】 【中ノ丸の建物跡】
【本丸切岸】
本来は石垣に囲まれていたのだが三原城を築城する際に持っていってしまったため、崩れた石垣が残る程度です。
【本丸の崩れた石垣】 【本丸跡】
【本丸跡】
本丸は、山頂尾根を削平した四段からなり、東西125mに及ぶ広大な郭で、西側と北側の斜面は巨石による石垣で補強している。
東端の最後部は標高197.6mで巨石が露出しているが、この上に櫓をあげていたものと思われ、近世城郭の天守台にあたる郭である。
本丸の広い郭には、居館の跡と思われる礎石が一部露出しており、また、西側の中ノ丸からの登り口にあたる本丸西南隅には内枡形の跡が残っている。
【本丸から見た詰ノ丸方向】 【詰ノ丸跡】
【詰ノ丸跡からの眺望】 【詰ノ丸にある音声説明器】 【大手門跡】
大手道を登り詰めたこの場所は、外枡形の大手門跡と推定される。三原市内にある宗光寺の山門は重要文化財で高山城(新高山城)の大手門を移したものと伝えられるが、ここにその門が建っていたと思われる。
【大手門跡】 【大手道】 【本丸下(中ノ丸跡)の郭】
【横堀】 【中ノ丸跡】 【中ノ丸跡】
【中ノ丸跡】 【釣井の段(井戸郭)跡】 【釣井の段の説明板】
上下二段からなるこの井戸郭は、東西南北ともに50m余という城内最大の郭である。
上段の郭には径約2mの遠景石積井戸が四ヶ所、下段の郭には径約4.2mと2.2mの円形石積井戸が残っている。
今なお、清水を湛えたものもあり、城主をはじめ多くの家臣団の城内生活を物語るものである。
【井戸跡】 【釣井の段・下段】 【井戸跡】
【東ノ丸の石垣】 【釣井の段(下段より)】 【釣井の段跡】
【ライゲンガ丸の虎口】 【井戸跡】 【ライゲンガ丸の石垣】
【ライゲンガ丸から見た釣井の段】 【ライゲンガ丸跡】 【東ノ丸跡】




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