城名 | 高山城(別名:妻高山城、古高山城) | |||
住所 | 〒729-0412 広島県三原市本郷町本郷・高坂 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 小早川茂平 | |||
築城年 | 建永元年(1206) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 小早川氏 | |||
位置 | 北緯34度25分10.0秒 東経132度59分02.3秒 |
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【沿革】 小早川氏の祖先、土肥実平・遠平父子は、源頼朝の平氏追悼に当って終始勲功をたて、はじめ備前・備中・備後の三国の守護の地位を与えられたが、安芸国沼田荘、沼田川流域一帯、蓮華王院領の地頭職を得ると一族をあげて相模国から西遷してきた。 そして建永元年(1206)、遠平の孫・茂平が東国より沼田荘地頭に任ぜられ城を築いたのが妻高山城のはじまりである。のちに茂平は、三男雅平を惣領として沼田本荘を継がせ、弟季平に沼田新荘を、長男経平に船木郷を、四男政景には竹原荘を譲り、それぞれ一族庶子に分割相続を行った。 そして、鎌倉・室町時代を通して高山城は、沼田小早川(本家)が居城した。この高山城は、標高191mの山塊の、中央にできた谷を挟んで南と北にそれぞれ東西に延びる尾根に築かれた連郭式縄張りを持つ。北側に本丸・二の丸・北の丸を配し、南側に西から出丸・権現丸・イワヲ丸・南丸・出丸など多数の曲輪が構築され、その城域は約41万uにも及び、現在全国でも五指に数えられる広大な規模を有していた。 天文19年(1550)嫡流・小早川氏の当主・繁平が病弱だったため、竹原小早川氏から妹婿として隆景が17代として迎えられ、本家と分家はひとつになり、翌年には木村城から高山城へ移ってきたが、隆景は中世の縄張りである高山城を廃し、戦国時代に相応しい城をと支城を大改修し新高山城を築いた。 【感想】 高山城のの登城口は南側の大手口と北側の搦手側の2つあります。本郷駅から徒歩での登城だったので近い方の大手口から登城しました。登城口は住宅地を抜けたところに指標がありわかりますが、この指標の数が少なく探すのに苦労します。 また大手道には案内板も設置されていないため城の縄張りもわからず登ることに、上に行っても南側の尾根にはイワオ丸の指標がないため、自分がどの場所にいるのかもわからなくなります。 そのため北側の尾根に本丸、二ノ丸などがあることもわからずに回ってしまい今回は南側の尾根だけとなり残念でした。 登城の前にLINKの所にパンフレットがありますのでそれを見てからの登城をおススメします。 |
登城日 | 2019年5月3日(金) | ||
LINK | 高山城パンフレット | |||
高山城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【三つ巴】 (桓武平氏良文流) 小早川氏家紋 |
※搦手にある案内板より(大手道側には案内板がありません) |
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※LINKの高山城パンフレットより(加筆有り) |
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【大手道(南)側の登城口】 住宅街を抜けてくると案内指標があります。途中までは何もないので探すのが大変かも知れません。 |
【大手道側登城口】 | 【コース分岐点】 左は「一般コース」:落ち葉がひどく道は狭いので注意が必要。 右は「健脚コース」:道は急峻で岩場が多いがこちらのが登りやすい。 |
【健脚コースの岩場】 | 【出丸南側の曲輪跡】 | 【出丸南側の曲輪跡】 |
【出丸南側の曲輪跡】 | 【@の堀切】 | 【一般コースとの合流点】 |
【出丸下城道より】 出丸の石垣を見ることができる |
【出丸下の竪堀】 | 【出丸のA土塁】 |
【出丸と南ノ丸間の堀切】 | 【出丸と南ノ丸間の堀切】 | 【出丸跡】 |
【南ノ丸跡】 | 【南ノ丸跡】 | 【南ノ丸の土塁】 |
【南ノ丸の横堀】 | 【南ノ丸の横堀と土塁】 | 【南ノ丸に放置された石垣】 |
【南ノ丸の放置された石垣】 | 【南ノ丸からイワオ丸へ続く城道】 | 【イワオ丸の虎口】 |
【イワオ丸跡】 大手道から登って唯一指標のある曲輪で大きな巨石と貯水池がある。 |
【イワオ丸から見た眺望】 | 【イワオ丸の貯水池】 |
【イワオ丸の巨石と貯水池】 | 【イワオ丸跡】 | 【イワオ丸にあったブランコ】 |
【武者走り】 | 【土橋と堀切】 イワオ丸から権現丸へ続く土橋 |
【権現丸(高野丸)跡】 |
【権現丸(高野丸)跡の最高所】 | 【権現丸(高野丸)跡の最高所・三角点】 | 【権現丸(高野丸)跡】 |
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【太鼓丸跡】 | 【太鼓丸跡】 この先に西ノ丸があるが急峻なため降りる場所がわかりませんでした。 |
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