城名 | 木津城(実際の木津城跡とは違うようです) ※上野山城(別名:木津上野山城、上之山城)の名称が提唱されています。 |
|||
住所 | 〒619-0218 京都府木津川市城山台 |
|||
入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 不明 |
|||
築城年 | 不明 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | ? | |||
位置 | 北緯34度43分5038秒 東経135度50分01.1秒 |
|||
【沿革】 城址公園の一画には、城跡が残されてます。公園内の城跡は、木津川市役所周辺部の平野部を見下ろす東部の「城山」と呼ばれる、標高106mの丘陵状に位置する遺跡です。城跡の中心部は、南北60m、東西50mの方形を呈する郭の一つで構成されています。 この城跡は、15世紀半ばに起こった応仁の乱(1467〜1477)によって、室町幕府の守護大名らの覇権争いが激化するなか、地元農民や在地土豪が生活を守るため、近くで合戦が始まると周囲の高台や丘陵上に設けた砦や城館に立て籠もりました。この城跡も在地土豪を中心にした人々により維持されていたと考えられます。 城跡からは、眼下に京都・奈良を行き交う街道を見下ろし、木津川を上り下りする荷船や渡船も見通せて、小さい城跡ながらも南山城の要衝として重要な施設であったことがわかります。 【木津城の名称」 現在この地の名称は『木津城跡公園』となっていますが、LINKの”木津の文化財と緑を守る会」では、”京都府が昭和45年最初に名付けた名称が間違っていたのです。”と言っています。 史料に出てくる「木津城」は、木津本町(旭住宅や南・北大路町及び1・2丁目辺り)にあった平城で、三好政康や香西の兵士3,000人が入城した大きな城です。 名称としては @興福寺の六法・衆徒・国民が木津を攻めた時、木津氏らは木津城を放棄し「一庄悉逃散し、上野山も取り云々」。(大乗院寺社雑事記) A木津氏が松永久秀方から将軍義昭方に寝返ったので木津城を攻めるために、「三好義継、松永久秀は木津之上之山ニ野陣也」(多聞院日記)と記されています。 木津庄には山が少なく丘陵地域は釜ケ谷を挟む丘陵と梅谷地域だけです。このことから考えても、上野山もしくは上之山を指す場所はJR東側の城山以外に比定するところはなく、城の名称は上野山城もしくは上之山城で間違いはないでしょう。 としています。 【感想】 木津城と呼ばれていた城はこの場所とは別にあり、平城だったようです。 そのため、この場所は本来、別の名称だったようですが明確な明記はないようです。 城跡は単郭ですが遺構は良好に残り、土塁と空堀に囲まれ、土橋も見られます。 |
登城日 | 2019年5月12日(日) | ||
LINK | 木津の文化財と緑を守る会〜『木津城の名称』について | |||
木津城(山城国)-Wikipedia | ||||
城主家紋 | − | − |
※説明板より |
||
【城址南側入口】 | 【城址南側入口】 | 【空堀と城道】 |
【土橋】 | 【土橋】 | 【曲輪跡】 |
【土塁】 | 【曲輪跡】 | 【土橋】 |
【城道】 | 【城址から見た北側の眺望】 | 【土橋】 |
【空堀】 | 【空堀内から見た土橋】 | 【城址東側入口】 |
− | − | |
【城址北東から見た遠景】 | − | − |