城名 目賀田城(別名:目加田城)
住所 〒529-1235
滋賀県愛知郡愛荘町目加田
入場時間
入場料
指定文化財 町指定史跡
城郭構造 平地城館
天守構造
築城主 目賀田貞政
築城年 天正4年(1576)
主な改修者
主な城主 目賀田氏
位置 北緯35度11分12.6秒
東経136度14分8.5秒
【沿革】
目賀田氏は、戦国期に近江国守護佐々木六角氏の重臣として活躍します。ところが、永禄6年(1563)六角義賢(承禎)の嫡男義弼(義治)が重臣のひとりである後藤父子を謀殺するという愚挙をなした。この事件に反発した重臣たちは観音寺城内の邸を焼き、それぞれ所領に引き揚げていった。とくに後藤氏の親戚であった目賀田貞政は、浅井氏に通じて六角氏に反旗を翻した。事態を恐れた義賢(承禎)・義弼父子は観音寺城を捨て、三雲・蒲生氏を頼り落ちのびた。観音寺騒動と称されるこの事件は、戦国大名六角氏の勢力を大きく後退させる結果となった。

永禄11年(1568)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛軍を起こした。信長は六角承禎に協力を要請したが、承禎はこれを拒絶したため、信長軍の攻撃を受けて観音寺城は陥落、六角氏は没落した。

目賀田貞政は浅井氏に属したが、浅井氏は越前朝倉氏と結び信長と対立して天正元年(1573)に滅亡、貞政は嫡男の堅綱とともに信長の麾下となり旧領を安堵された。

畿内を平定した信長は近江に築城を計画、白羽の矢を立てられたのが目賀田氏が拠る目賀田山であった。天正4年(1576)、貞政は目賀田山明け渡しの命を受け、所領のひとつである光明寺野に移住すると新たに目賀田城を築き、春日神社を勧進した。これが現在残る目賀田城址で、光明寺野の地名も目加田と呼ばれるようになった。

一方、目賀田山に築かれた信長の城こそが安土城です。山の名前も安土山に変わったようです。

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起こり、そのときの城主の目賀田堅政は明智光秀に加担したため秀吉に所領を没収され、一族は離散し、慶長2年(1597)廃城になったという。

目賀田城は県下でも比較的類例の多い単純な方形構造を持つ平地城館です。
現在は目加田集落が目賀田城をその南西部分に取り込むように成立しており、ほぼ一町四方の城館主郭内部においても今日、かなり宅地化が進んでいます。しかしながら、当城跡において残存する土塁は比高3mを有しています。

当城館の特徴としては、現在は既に整地されていますが、城館北側の内湾部の存在があります。これは堀を経て岩倉川に通じる舟入と考えられており、河川を利用した水運が想定されております。また、目加田集落の周囲をめぐる里道においては、外部から集落に入る道が交差するところで3ヶ所食い違いがあり、これを虎口の遺構と見ると、目加田集落は城館を中心にして総構えで編成されたとも考えられます。

【感想】
最寄り駅の豊郷駅から1.8km、歩いても歩いても城址らしきものは見えてきません。それもそのはず宅地開発が進み建屋の影に完全に隠れてしまっています。
その中で土塁がこれだけ残っているのは奇跡的なのでしょうね。
北西隅の角も残っているのでそこが方形であったことが想像しやすいです。


登城日 2019年9月30日(月)
LINK 愛荘観光なび-目加田城址
城主家紋 【三つ杏葉】
(藤原姓)
目賀田氏家紋

                      

探訪
【城址碑と説明板】 【土塁】 【土塁と西側虎口跡】
【土塁】 【土塁上から見た城址】 【土塁上】
【土塁】 【西側入口より見た城址】




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