城名 鎌刃城(別名:蒲葉城)
住所 〒521-0025
滋賀県米原市番場
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 土肥氏
築城年 応仁の乱以前
主な改修者 土肥氏、堀氏、浅井氏
主な城主 土肥氏、堀氏、浅井氏
位置 北緯35度17分49.4秒
東経136度18分55.6秒
【沿革】
滋賀県米原市にあった山城。鈴鹿山系の霊仙山(標高1,083m)の東尾根の支尾根の東端、中山道の番場宿を見下ろす位置に築かれていた城である。城名の「鎌刃」の通り、主郭から北西に延びる切り立った尾根上に曲輪群を配置した城郭で、発掘調査により戦国時代には珍しい内桝形虎口跡が出土した城として注目された。

築城年代は定かではないが、鎌倉時代に箕浦庄の地頭であった土肥氏が居城として築いた城と伝えられている。しかし城跡は番場村から離れた山中に立地しており、在地支配城ではなく、軍事的な目的のためにのみ築かれた城のようです。おそらく土肥氏は番場に今も残る「殿屋敷」に居館を構えていたのでしょう。

その後、堀氏代々が居城とした。戦国時代に入ると、この地は交通の要衝にあったことから、その領有をめぐって、江北(北近江)の京極氏や浅井氏と江南(南近江)の六角氏の争いが繰り返されたところである。このため、中山道に沿って数多くの城が築かれたが、鎌刃城もその一つである。

鎌刃城は江北と江南の勢力がぶつかり合う、いわゆる境目の城で、城主の堀氏は両勢力の間を揺れ動いた。たとえば、文明6年(1474)、城主の堀次郎左衛門尉は京極持清の家臣今井秀遠に攻められて討ち取られている。天文2年(1533)には、観音寺城を居城としていた近江半国守護の六角定頼が今井定清に命じて鎌刃城を攻めさせ、堀氏を追って、定清の家臣の島秀安を城代とした記録がある。その後、堀氏は六角氏に降り鎌刃城主に復帰したが、永禄2年(1559)には、堀氏は小谷城の浅井長政に臣従した。元気元年(1570)、堀氏は織田信長に内応したため、長政に攻められて落城、長政家臣の百々越前守が城代として入城した。

しかし、朝倉・浅井連合軍は同年の姉川の合戦で織田・徳川連合軍に敗れたために、鎌刃城は織田方の城となり、堀氏がまた城主として返り咲いた。翌元亀2年(1571)、鎌刃城は再び浅井長政に攻められたが、横山城(のちの福知山城)の城将を務めていた木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の援軍によって救われた。天正2年(1574)、同城一帯は織田信長の直轄領となり、その後まもなく廃城となった。

主郭の周囲にめぐらされていた石垣は崩れているが、虎口の石段が良好な状態で現存しているほか、内桝形のある曲輪の南斜面に高さ4m、長さ30mに及ぶ大石垣が残っている。
(「日本の城がわかる事典について」、説明板より)


【感想】
JR米原駅で自転車(ママチャリ)を借りての登城。注意すべきはJR米原駅にはコインロッカーがほとんどないので荷物は軽めがおススメ。
湿気の多い時期には山ヒルが多く出るところらしく、前日が雨であったため心配したが、秋も深まり気温があまり高くなかったためか出くわすことはなかった。
この城は熊の生息地に近いこともあり熊鈴は必須です。
城は整備されているため登城はしやすいが、城域は広く隅々見て回ると時間が掛るので余裕を持った方が良い、西の曲輪一体は高低差が大きく下に行くには虎ロープを伝っていくことになるが倒木でロープが使用できない状態であった。倒木などもあるので軍手などをして登場する方が良いでしょう。


続日本
100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
「源右衛門」案内パンフレットボックス
登城日 2019年10月20日(日)
LINK 鎌刃城トレッキングマップ(pdf)
Wikiedia-鎌刃城
城主家紋 【三つ盛亀甲】
(藤原氏の子孫か?)
浅井氏家紋

                      

探訪

※説明板より(加筆有り)
【彦根43ガード】
名神高速道路の下のフェンス、ここを開けたら必ず閉めて城に向かいます。
【彦根43ガード】 【登城口への道】
【登城口】 【登城道】 【登城道】
【登城道】 【登城道】 【登城道】
枡形の様な作りになっている。
【登城道】 【登城道】 【登城道にある熊除けの鐘】
【大堀切との分岐】
指標の向きが間違っていますが、真直ぐ行くと北-Wに入る道に続く。
【大堀切】
城の北方を防御する施設であり、鎌刃城跡の中でも最大規模を有する堀切です。堀切の最大幅は約25m、堀底までの深さは約9mを計ります。
【大堀切】
【北-Y】
この曲輪は鎌刃城の北端を防御する重要な役割を果たしていました。周囲には削りの残して造られた土塁が巡らされています。平成10年度に実施された発掘調査によって、柱間を6尺5寸とする5間×3間以上の礎石建物が検出されました。この建物は土塁を壁面とする半地下式構造の櫓であったと考えられます。
【大櫓跡】 【展望台からの眺望】
【展望台から見た北-Y】 【北-Xの枡形虎口】
門の礎石も確認でき、薬医門形式の門がありました。
【北-Xの枡形虎口】
【水の手】
この「水の手」は、上流700mの清流滝からのパイプを通って流れています。復元整備と言ってもここまで引くことが良かったのかは疑問。この水のお陰で下の通路は水浸しです。
【大石垣へと下りる通路】
この通路が水浸しになり途中ぬかるんでいます。
【北-Xの石垣】
【大石垣】 【北-W-2】 【北-W-1】
【北-W-1の見張り台】 【見張り台からの眺望】
遠目ではあるが琵琶湖を眼下に見ることができる。
【分岐からの入口】
【北-W-2】 【北-W-2】 【北-W-2】
【北-V】 【北-V】 【北-V】
【北‐U】 【北-T】 【北-T】
【北-T】 【主郭】 【主郭石垣】
【主郭】 【主郭】 【城址碑】
【主郭の枡形虎口】 【枡形虎口・門礎石】 【主郭全面と枡形虎口】
【主郭の土塁】 【主郭】 【土塁上から見た主郭】
【南-T】 【南-T】 【南-T、U間の堀切】
【南‐U】 【南‐Tから見た西‐T】
西-Tから先は高低差があり、、虎ロープもあるが倒木もあり下りるのをやめておいた。
【南-Uの土塁と説明板】
【土塁上から見た南-U】 【南-U下の大堀切】
南側の尾根にはここより7つの堀切が設けられています。
【南-U下の大堀切】
【南-U下の大堀切】
正面が南-Uになる。
【南側尾根】
尾根は狭く左右は急峻な崖の様になっている。
【堀切1】
【堀切1】 【南側尾根】 【南側尾根】
途中に巨石がある
【堀切2】 【南側尾根】 【堀切3】
【堀切4】
ここから先は山の登城口と反対側になるためここで終わりとした。
【鎌刃城遠景】




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