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城名 | 高槻城(別名:入江城) | ||
住所 | 〒569-0075 大阪府高槻市城内町 |
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入場時間 | − | |||
入場料 |
無料
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指定文化財 | 大阪府指定史跡 | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | 三重天守(非現存) | |||
築城主 | 近藤忠範 | |||
築城年 | 10世紀末程度 | |||
主な改修者 | 和田惟政、土岐定義 | |||
主な城主 | 入江氏、和田氏、高山右近、内藤氏、永井氏 | |||
位置 | 北緯34度50分33.95秒 東経135度37分15.31秒 |
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地図 | 1 | 天守教会堂跡 | ||
2 | 野見神社唐門 | |||
3 | 東大手門跡 | |||
4 | 移築城門 | |||
5 | 高山右近像 | |||
【概要】 高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。 永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察師ヴァリニャーノを迎えて盛大な復活祭を催している。 その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大坂夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入場、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。 明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。 (城跡公園立て看板より) 【私見】 遺構は皆無に等しいが、周囲を回ると立て看板などがあり当時を想像して回るのが良い。 城跡公園も見る場所は、あまりないが、唯一移築現存している城門(高麗門)を見忘れないように。 |
登城日 | 2009年2月26日(木) | ||
LINK | 城と城下をゆく-デジタルで再現・高槻城3D映像- | |||
高槻市観光サイト | ||||
高槻城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【三つ輪の上の輪の内甃】 清和源氏満政流 入江家家紋 |
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【七曜】 (清和源氏満政流) 和田家家紋/高山家家紋 |
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黒餅に鉄線 (桓武平氏長田氏流) 永井家家紋 |
【高山右近像】 カトリック高槻教会に建つ石像 |
【永井神社】 高槻城三の丸の一角に所在する野見神社の摂社で江戸時代中期寛永5年8月(1793)9代藩主永井直進が初代藩主の直清を祭神として祀った。直清、高槻城入城200年(嘉永元年(1848)を記念して社殿を修復、新たに唐門、拝所を造立した。 |
【唐門】 | |
【唐門】 | 【拝所】 | 【高山右近天主教会堂跡】 現在は高槻市商工会議所になっている。 |
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【高山右近天主教会堂跡碑】 | 【高槻城厩郭 枡形門石垣石】 | 【高槻城見取図】 | |
【三の丸跡】 現在は市障害者福祉センター付近 |
【東大手門跡】 三の丸への重要な出入口 |
【歴史民俗博物館】 江戸時代の商家を利用している。 |
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【城址公園】 模擬堀 |
【城址公園】 模擬石垣 |
【高山右近像】 城址内に立つ |
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【城址公園】 | 【元工兵第四戦隊営門跡】 | 【高槻城跡碑】 | |
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【高槻城石垣の一部】 高槻城で使用された石垣の一部が置いてある。 |
【本行寺の移築門】 高槻城の唯一の遺構 |
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