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城名 岸和田城(別名:千亀利城)
住所 〒596-0073
大阪府岸和田市岸城9番1号
入場時間 午前10時〜午後5時(入場午後4時まで)
休館日:月曜日
    12月30日〜翌年1月4日
入場料
大人:300円、中学生以下無料
指定文化財 大阪府史跡
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 複合式層塔型5重5階(1619年改)
現在:復興天守(1954年再)
築城主 信濃泰義(推定)
築城年 応永年間(1394年-1428年)
主な改修者 三好義賢、小出秀政、岡部宣勝
主な城主 小出氏、岡部氏
位置 北緯34度27分31.74秒
東経135度22分14.81秒
地図 多聞櫓・隅櫓
櫓門
搦手門
伏見櫓跡
ニの丸多聞櫓
続日本100名城
スタンプ
【沿革】
岸和田城がいつ、誰によって建てられたかのか食うわシイことはまだ分かったいませんが、戦国時代末期(16世紀半ば)には、当時泉州地域を治めた松浦氏の居城となっていました。
織田信長の家臣津田信張・蜂屋頼隆がしばらく在城した後、羽柴秀吉は家臣ん中村一氏を岸和田城主とし、紀州の根来寺や雑賀衆への押さえとしました。一氏は紀州勢の大軍を相手に城を守り抜き、天正13年(1585)、秀吉は岸和田城を拠点として根来寺を焼き討ちして、泉州地域から根来勢力を一掃しました。その後、秀吉は叔父の小出秀政を城主とし、秀政は城下町と城郭の整備にかかり、天守閣も秀政によって建てられました。
豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏二代を経て、寛永17年(1640)、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千国を治めました。江戸時代の岸和田城は、大阪の南の守りとして、幕府の西国支配に重要な役割を果たしました。
この間、文政10年(1872)、落雷によって天守閣は焼失し、以後長らく再建されませんでしたが、昭和29年、鉄筋コンクリート造りで3層の天守閣が再建され、また昭和44年に城壁と櫓が再建されました。

【感想】
搦手側から堀越しに見ると特徴の一つ犬走りも見える。
本丸内には搦手の門があるが閉まっているのが残念でした。
 
スタンプ設置場所 岸和田城天守閣受付
登城日 一回目:2009年3月24日(火)
二回目:2018年6月17日(日)
 LINK 岸和田市公式HP
岸和田城-Wikipedia
城主家紋 【額に二八文字】
(藤原南家二階堂流)
小出家家紋
【左三つ巴】
(藤原南家工藤氏流)
岡部家家紋

                      

探訪

※説明板の岸和田城絵図より
【岸和田城址碑】
岸和田市役所の一画にある。
【ニの丸石垣と堀】 【ニの丸石垣と堀】
【ニの丸石垣・心技館と堀】 【二ノ丸堀越しから見た本丸方向】 【二ノ丸堀】
現二ノ丸広場
【二の丸跡】 【二の丸跡ある心技館(御殿風復興建物)】 【伏見櫓跡】
【二ノ丸跡より見た本丸】 【櫓門】 【城址碑】
【櫓門内側】 【弓狭間】 【大天守と子天守】
【八陣の庭越しの大天守と小天守】 【八陣の庭】 【搦手側より見た大天守と小天守】
【本丸・搦手門】 【本丸・搦手門の外側】 【本丸搦手側】
【天守閣からの眺望】
正面は関西国際空港。
【ニの丸多聞櫓】
現在は公衆トイレになっている。
【多聞櫓・隅櫓】
【本丸南側石垣】
石の積み方の違いを見ることが出来ます。
【本丸石垣・切込みハギ】 【本丸石垣・野面積み】
【南東側より見た本丸】
こちら側には犬走が見られます。
【南東側より見た大天守】 【東側(大手搦手側)より見た本丸】
搦手門を出ると犬走りがあります。
【本丸搦手門】 【本丸北側石垣】
こちらは全面野面積みになっている。
【東大手門跡】
ジャンル:カレー
店名:唯我独尊
住所:〒596-0054
  大阪府岸和田市宮本町41-1
TEL:072-432-4784
営業時間:11:00〜21:00
定休日:第2・第3月曜日

お店イチオシはソーセージカレー、写真はソーセージカレーにトッピングで野菜をプラスしたもの。
存在感あるソーセージは自家製で味・歯ごたえ共によい。カレーの方はスパイシーで辛め。ルーのおかわりが自由なので大盛りをたのんでも問題はないですね。通常だとご飯が足らなくなるかも。




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