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城名 松山城(別名:千鳥城)
住所 〒690-0887
島根県松江市殿町1番地5
入場時間 本丸開門時間
4/1〜9/30 午前7時〜午後7時30分
10/1〜3/31 午前8時30分〜午後5時
登閣時間
4/1〜9/30 午前8時30分〜午後6時30分
10/1〜3/31 午前8時30分〜午後5時
年中無休
入場料
大人:550円、小人:280円
指定文化財 国指定史跡、国宝(天守)(2015年5月)
城郭構造 輪郭連郭複合式平山城
天守構造 複合式5重6階望楼型
築城主 堀尾吉晴
築城年 慶長16年(1611)
主な改修者 京極忠高
主な城主 堀尾氏、京極氏、松平氏
位置 北緯35度28分30.42秒
東経133度3分2.69秒
地図 大手門跡
太鼓櫓
南櫓
千鳥橋(御廊下橋)
祈祷櫓(荒神櫓)跡
100名城
スタンプ
【沿革】
堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦で武功を立てた堀尾忠氏(堀尾義晴とする説もある)は、慶長5年(1600)出雲・隠岐両国24万石(23万石とする説もある)を与えられ、広瀬の富田城に入城した。
しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下町を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山ともいう)に城地を移した。
築城工事は、慶長12年(1607)から足掛け5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西360m、南北560mあり、周囲に幅20〜30mの内堀をめぐらす。
標高28.1mの頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ六ヶ所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。天守は本丸の東北隅に築かれている。二の丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。本丸の東側の平地は二の丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。城山の南には三の丸(今の県庁付近)があり藩主の御殿があった。
石垣用の石材は、松江氏の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印がある。
城主は堀尾氏、京極氏と続くがいずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が十代続き一度の戦乱に巻き込まれることな明治維新を迎えた。

ー人柱伝説ー
松江城の城主、堀尾家は三代、京極忠高は一代限りとなっています。いずれも嗣子がないためのお家断絶によるものです。
松江城、初代城主・堀尾吉晴が工事に取りかかったところ、土台の石垣が突然崩れるという事故が2回続けて起こります。原因を調べるために崩壊した箇所を掘り下げてみると、なんと錆びた槍が貫通した頭蓋骨が出てきます。これが原因と考えた吉晴公は人柱として盆踊りを開催し、その中で最も美しく、踊りの上手な少女をさらい、人柱にしました。石垣は見事に出来上がり城も無事落成したのですが、その後、吉晴公の実の娘は病を苦に自殺し、継嗣である忠氏はマムシに咬まれて急逝してしまいます。さらにお家騒動があって、果ては三代目で断絶。次に入部した京極氏も、嗣子ができないために断絶の憂き目を見ます。
その後、松江城に入城するのが徳川家康の孫、松平直政公です。
その時点で、天守閣は荒れ放題になっている上に、最上階の「天狗の間」に夜な夜な娘の亡霊が出て、直政公を悩ませるのです。そしてこの亡霊こそが、崩壊した石垣に人柱として埋められていた娘であると分かり、直政公が手厚く供養して、亡霊は出なくなったそうです。
度重なる不幸やお家断絶も、槍が貫通した頭蓋骨のたたりを鎮めるために、娘を人柱にしたことで、さらなる災厄を呼んだということなのでしょう。

【感想】
外壁は下見板張りで覆われ重厚感あふれる天守は存在感があります。外観はそれほど大きく感じませんでしたが5層6階と現存十二天守の中でも姫路城に続いて2番目に大きい天守閣です。
天守閣内部の資料も豊富ですし、最上階からの眺望は宍道湖を眼下に望みとても綺麗です。
 
スタンプ
設置場所
松江城天守内受付窓口
登城日 2009年5月13日(水)
 LINK 島根観光ナビ
松江観光公式サイト
松江城-Wikipedia
城主家紋 【抱き茗荷】
(高階氏後裔)
堀尾家家紋
六目結
 ↓
 
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)
京極家家紋
【三つ葉葵】
松平家家紋

                      

 探訪
【松江城碑】
大手門脇
【馬留跡】
ここは馬留と呼ばれる一辺46m程のほぼ正方形の平地です。入口には大手柵門(写真手前)、右へ曲がると鯱を付けた壮大な大手門がありました。西側にある高さ13mの高い石垣や、南・東側の石垣の堀、さらに内側の高さ1mほどの腰石垣による土塁でこの広場を四方から守っていました。この入口の形態は枡形と呼ばれるもので、敵兵の直進を防ぎ、侵入の勢いを弱める機能と、出撃の際にこの馬留に城兵を待機させ隊形をを整える機能を果たしていたようです。

【井戸跡】
馬留跡内堀側にある。
【井戸跡】
一つ前の井戸と対角線状にある。
【中櫓】
ニの丸上の段に復元された三基のうちの1つ。
【太鼓櫓】
ニの丸上の段に復元された三基のうちの1つ。
【大手門跡】
長さ8間(14.5m)、幅3間半(6.4m)の鯱を付けた大きな門で、防御の要となる門でした。

【二の丸下の段】
東西100m、南北210mの広大な平地で江戸時代には米蔵がたくさんありました。北には屋敷地、南には幕末の頃、御破損方・寺社修理方(城や寺社仏閣の建物修理事務所)がありました。この御破損方・寺社修理方跡には現在同じ大きさで茶店、売店が建っています。

【ニの丸上の段への登城口】
上にある櫓は太鼓櫓。
【登城道右側石垣】
刻印が刻まれている石垣があります。
【ニの丸下の段】
米蔵跡が平面整備されています。
【三ノ門跡】
【定番所跡】
三ノ門入って左側。ニの丸上の段には松江松平藩二代藩主綱隆時代まで藩主の住居した御殿があった場所で、その御殿の入口を警備する人々が詰めていた番所。

【太鼓櫓】
【太鼓櫓内部】
【中櫓】
幕末には具足櫓と呼ばれていた。
【南櫓】
幕末には御召櫓とも呼ばれていた。建てられている位置から、城下町の南東方向を監視する櫓であったと考えられる。

【南櫓二階からの眺望】
【南口門】
【南口門登城路】 【千鳥橋(御廊下橋)】
江戸時代には御廊下橋と呼ばれ、お城の中心部と藩主の館があった三の丸御殿を結ぶ重要な橋で屋根がかかっていました。

【千鳥橋脇の船着き場跡】 【御月見櫓跡】
南口門右側脇。
【ニの丸上の段全景】
【興雲閣】
明治天皇を迎えるために建てられた御宿所。しかし日露戦争が起り天皇の行幸は実現しなかったが皇太子(後の大正天皇)の山陰行啓のとき、ご旅館としてその務めを果たした。現在は松江郷土館となっている。

【御書院跡】
現在は松江神社になっている。
【松江神社】
松平直政公を御祭神とし楽山神社が創建されましたが、西尾に創建した東照宮を合祀し、昭和6年に松江開府の祖 堀尾吉晴公と松江藩中興のの名主松平治郷公を配祀し今日に至ります。

【手水舎】
この屋舎は元西尾村照高山に鎮座する東照宮の手水舎にして寛永16年(1639)藩祖松平直政公の命によって建築されたもので、この地に移築されたもの。

【二の丸上の段の井戸】 【二ノ門】
【一ノ門】
本丸入口
【多門跡】 【鉄砲櫓跡】
【多聞】
現在は休憩所
【武具櫓跡】 【天守閣】
【天守閣】 【天守閣】

【天守閣内井戸】
地階(穴倉の間)は、籠城用生活物資の貯蔵庫である。中央には、深さ24mの井戸がある。
【松平直政公像】

【寄木柱】
柱は、肥え松の一本の柱の外側に、板を揃えて寄せあわせ、これを金輪で締めて太い柱が作られている。この寄木柱の方が、普通の柱より力学的に強く、吉晴の苦心の作である。
【石落し】
2階の四隅と東・西・北壁にある幅広い穴が石落しで石垣に近づく敵に石を落とすようになっている。外部からは発見しにくいように構造物を利用した石落しである。
【松江城模型】 【窓】
【箱便所】
4階部分に便所があるのは驚きです。
【本丸全景】 【天守閣最上階からの眺望】
眼下に見える宍道湖がとても綺麗です。

【祈祷櫓跡】(別名:東之出し矢倉、荒神櫓)
本丸にあった六つの櫓の一つ。築城前にはこの櫓の建ったところに塚があり、また榎木を神木とする荒神が祀ってあったところであり築城時にしばしば石垣が崩壊する怪異が生じた。祈祷櫓の名称は、それを祀りなおし以来毎月この櫓で松江城の安全祈祷を続けたことに由来する。

【乾櫓跡】
【北ノ門】 【北ノ門】
【奥去口ノ門跡】 【北側登城口】 【ギリギリ井戸跡】
築城の際、井戸の南側に築いた石垣が突然崩れたので掘って調べたところ人間の頭骨と槍がありました。そこで、祈祷して霊を鎮め、工事を再開し石垣がやっと完成しました。深く掘った所が頭の頂部(つむじ、ぎりぎり)に似た井戸となったことから、この付近の井戸や門にこの名がついた。

【ギリギリ井戸跡裏石垣】 【馬洗池】 【ギリギリ門跡】
【天守閣】 【南側堀から見た千鳥橋と南櫓】 【南櫓・中櫓・太鼓櫓】
【北惣門橋】
左側は脇虎口ノ門跡
【堀めぐりの船着き場】 【お堀の亀】




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