powered by 地図Z ※地図上のマーク、線はおおよその位置を示したものです。 |
城名 | 日野城(別名:中野城、仁正寺陣屋) | ||
住所 | 〒529-1628 滋賀県蒲生郡日野町西大路 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 史跡 | |||
城郭構造 | 不明 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 蒲生定秀 |
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築城年 | 天文2年(1533) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 蒲生氏 | |||
位置 | 北緯35度0分33秒 東経136度15分38秒 |
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地図 | 1 | 蒲生氏郷公産湯の井戸 | ||
2 | 堀跡 | |||
3 | 物見櫓跡 | |||
4 | 仁正寺藩庁跡 | |||
5 | 中野城址碑 | |||
【沿革】 日野城は、氏郷の祖父、蒲生定秀により1530年頃、日野川の上流に築かれた城です。当初は、さらに上流部にあった蒲生氏の居城、音羽城の砦として造られ、中野と呼ばれる原野に築かれたことから、中野城とも呼ばれていました。 蒲生氏は、室町時代、湖東、湖南地方を支配した六角氏に仕えましたが、戦国期、信長により六角氏が滅ぼされると、その家臣となります。当時、13歳であった蒲生氏郷は、人質として、美濃(岐阜)に送られることになりました。 翌年、信長の部下として、初陣で戦功を上げた氏郷は、その才能を見出され、信長の娘、冬姫を妻にもらい日野へ戻ることを許されます。日野城に戻った氏郷は、数々の戦で武功を立てながら、信長の手法を範に、城下町の整備に力を注ぎ、楽市の奨励、商業保護などの善政をしきました。 本能寺の変で織田信長が倒れると、家臣の蒲生賢秀と息子の氏郷は、安土城にいた信長の妻子を連れ、ここ日野城に信長の妻子をかくまい保護しました。 信長亡き後、豊臣秀吉に仕えた氏郷は、伊勢松坂12万石を経て、陸奥会津92万石の大大名となります。当時、松坂や会津若松には、氏郷を慕った多くの日野商人が移り住みました。会津若松の名も、氏郷が幼少の時に遊んだ近江の「若松の森」に由来しているといわれています。 【感想】 蒲生氏郷公の生まれた城なので、感慨深いものがありましたが、大半がダム湖造成のため破壊され消滅。 往時を偲ぶものが堀と本丸北側に残る石垣のみ。とても残念ですが、ダム湖の大きさから往時の姿を思い描きました。 日野城に来る途中の日野の町並みと合わせて来られれば良いと思います。 |
登城日 | 2009年9月21日(月) | ||
LINK | 滋賀県観光情報(日野城跡) | |||
日野朝公式HP | ||||
日野城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【対い鶴】 (藤原氏秀郷流) 蒲生家家紋 |
【中野城址碑】 一般的には日野城と言われますが現地では、音羽城と区別するため中野城と呼んでます。 |
【日野城北側の堀?】 | 【蒲生氏郷公産湯の井戸】 本丸の井戸跡。残っている本丸の高さから見て、実際にはこの場所よりも高い位置にあったと思われる。 |
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【日野ダム】 二の丸、三の丸部分か? |
【日野ダムの水門】 | 【日野城址入口】 残る本丸北側部分の入口。 堀を切ったようになっているが昔のものかわからない。 |
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【石垣と涼橋】 ごく僅かに残り石垣と涼橋神社の涼橋。 |
【日野城址碑】 |
【稲荷神社への石段】 |
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【堀跡】 | 【凉橋神社神苑池】 道を挟んだ反対側は堀跡なのでこの池も昔は堀の一部と考えられる。 |
【堀跡】 稲荷神社より撮影 |
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【稲荷神社】 拝殿の石段横に朽ちかけた木杭が立てかけられ、そこには「蒲生氏鬼門除けの稲荷・・・」と書かれていた。 |
【木杭】 ”蒲生氏鬼門除け”と書かれているが稲荷神社の説明板を読むと「元和6年(1620)に旧蒲生氏城内に陣屋を設けて仁正寺藩を立藩した市橋公は、江戸中期の元禄14年(1701)に藩庁の裏鬼門にあたるこの丘上に、藩の長久を祈願して伏見より勧請されたのがこの稲荷社である。」ということはこの木杭は・・・間違いですね。正確には『市橋氏裏鬼門よけ稲荷社』 |
【物見櫓跡】 日野城唯一の建物跡を示す場所。 |
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【涼橋】 | 【涼橋神社】 市橋氏の氏神であり、市橋が源氏の流れであることから、源氏の祖六孫王源経基を祭神とし、享保五年(1720)に藩邸の庭園であったこの地に創建された。 |
【涼橋神社より見たダム湖(日野ダム)】 | |
【入口】 日野城址とくっついているのですが反対側にも入口があったので載せておきます。 |
【仁正寺藩庁址】 元和6年(1620)越後国三条から入封された大名市橋長政は、蒲生氏の旧城であるこの地を本拠と定めて仁正寺藩を立藩、江戸全期を通じてここに仁正寺藩1万8千石の藩庁を設けていた。文久2年(1862)に仁正寺の名を西大路に改称、明治維新後の廃藩によって、御殿と呼ばれた藩庁は西大路村の朝陽学校などになった。 |
【藩主市橋家邸址】 藩庁の裏手に碑が建っているが邸宅と藩庁が兼用されていたと思われる。 |
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【蒲生氏郷公像】 | 【蒲生氏郷公像】 近江日野商人館内に展示。 |
【銀鯰尾兜】 蒲生氏跡が愛用した兜の銅像。 |
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【日野商人像】 | 【曳山モニュメント】 | 【近江日野商人館(山中兵右衛門邸)】 | |
【近江日野商人館中庭】 | 【蒲生氏郷肖像画】 | 【若草清水】 村井横丁にある地蔵堂のすぐ下に清水があり、「若草清水」と呼ばれている。千利休の七哲の一人だった日野城主蒲生氏郷が、茶の湯にこの水を使ったという由緒ある清水であるといわれる。 |
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【佛智山 信楽院(しんぎょういん)山門】 鎌倉期から安土桃山時代にかけて、日野地方をおさめた蒲生家の菩提寺である。 音羽城を築いた蒲生定秀は戦いに出る時、何時も厨子に入れた阿弥陀仏を槍の先にひっかけ、念仏を唱えながら戦ったといわれ、こんなことからこの仏を「槍かけ本尊」とも呼び、今もこの寺に安置されている。 |
【鐘堂】 | 【本堂】 | |
【本堂入口内】 | 【?】 | 【蒲生氏郷公遺髪塔】 | |
【場所】滋賀県蒲生郡日野町河原2丁目11番地 【店名】近江日野牛専門店(株)岡崎精肉店 【品名】コロッケ(60円)、串カツ(70円) 【感想】 日野町を自転車で観光したのですが、お店がないのです。コンビニもない、日野城からの帰り大きな道から駅へ向かうとようやく岡崎牧場直営のレストランを発見するも、やはり食べる場所があまりないのか凄く混んでおり待ってる方も多かったのであきらめ隣接してる精肉店へコロッケでもつまもうかと思って中へ、こちらも近江牛を買う人でごった返していました。 デリは別の窓口だったのでコロッケと串カツを注文。 注文してから揚げてくれるのでコロッケはほくほく、串カツはなんとジューシーなお肉なんでしょう。 昔買い食いして食べたころを思い出しちゃいました。 |