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城名 | 八幡山城(別名:近江八幡城) | ||
住所 | 〒523-0828 滋賀県近江八幡市宮内町 |
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入場時間 | ロープウェイを使用する場合 午前9時〜午後5時 |
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入場料 | ロープウェイ 大人往復800円(片道460円) 小人は半額 村雲御所瑞龍寺 参拝する場合300円 |
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指定文化財 | 史跡 | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 豊臣秀次 |
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築城年 | 天正13年(1585) | |||
主な改修者 | 浅井氏 | |||
主な城主 | 豊臣秀次、京極高次 | |||
位置 | 北緯35度8分39秒 東経136度4分55秒 |
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地図 | 1 | 二の丸跡 | ||
2 | 西の丸跡 | |||
3 | 出丸跡 | |||
4 | 北の丸跡 | |||
5 | 本丸跡 | |||
【沿革】 八幡山城は天正13年(1585)豊臣秀吉の甥にあたる豊臣秀次が近江43万石を与えられ、琵琶湖に臨む標高286mの八幡山に築城した。秀次は若干18歳の青年大名だったが、築城とともに城下町の建設に情熱を注ぎ、安土城下から多くの住民を移住させたという。 山麓には琵琶湖から水を引いた八幡堀をめぐらしたが、これは単に城の堀というだけでなく、運河の役目も果たし、商業の発展を願って築かれたものである。 天正18年(1590)小田原征伐の軍功により、秀次は尾張・伊勢を与えられ、100万石の太守として尾張清州城に移り、代わって京極高次が2万8千石で八幡山城主となった。 文禄4年(1595)京極高次が大津城に移ると八幡山城は廃城となった。皮肉にもこの年、豊臣秀次は秀吉の逆鱗に触れ、高野山で自刃。 城は廃されたものの、秀次が築いた基盤模様の城下町は存続し、近江商人の町として江戸時代を通じて繁栄した。近江八幡市には現在もなお、その面影が色濃く残っている。 【感想】 あまり期待はしていなかったのですが、山上には石垣も多くあり、ここがかつてお城であったことがわかります。各曲輪からの眺望は琵琶湖が見渡せるので最高です。 そのためか観光客が多いですね。 |
続日本100名城 スタンプ |
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スタンプ 設置場所 |
近江鉄道八幡山ロープウェイ山上駅 | |||
登城日 | 一回目:2009年9月22日(火) 二回目:2018年7月15日(日) |
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LINK | 近江八幡観光物産協会 | |||
八幡山城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【五七の桐】 豊臣家家紋 |
【八幡山】 | 【八幡堀】 八幡山城の堀ではあるが、琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡に寄港させるため運河として利用している。 |
【豊臣秀次公像】 秀吉の養子になり、秀吉の後継者として、関白職を継いで聚楽第に居住し政務を執ったが、秀吉に秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになり高野山へ追放後、切腹させられた。 |
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【二の丸石垣】 ロープウェイ乗り場を出ると目の前に見えます。。 |
【二の丸石垣】 |
【二の丸の転用石】 |
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【二の丸石垣】 | 【二の丸石垣】 | 【二の丸石垣】 | |
【西の丸址】 | 【西の丸石垣】 | 【出丸】 西の丸の先にある。 |
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【出丸からの本丸方面】 | 【龍神堂】 | 【二の丸石垣】 | |
【北の丸址】 | 【北の丸からの眺望】 遠目に安土城址、観音寺城址が見える。 |
【本丸石垣】 | |
【本丸石垣】 | 【村雲瑞龍寺門跡】 関白豊臣秀次公の生母瑞龍寺殿日秀尼公が秀次公の菩提を弔うために文禄5年(1596)正月に創建されたもの。 |
【瑞龍寺拝殿】 | |
【瑞興殿】 | 【金正稲荷堂】 | 【二の丸址】 | |
【八幡公園内案内図】 | 【八幡公園内秀次館跡付近】 先の竹藪のほうにかつての大手道があったようである。 |
【八幡公園内石垣】 | |
【秀次館跡石垣】 竹林に隠れているがこの上が秀次館になる。 |
【秀次館跡大手道】 左側は私有地の為立入禁止になっている。 |
【秀次館跡石垣】 | |
【秀次館跡石垣】 | 【秀次館跡石垣】 | 【秀次館跡石垣】 | |
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