powered by 地図Z |
城名 | 月山富田城(別名:月山城,富田月山城) | ||
住所 | 〒692-0403 島根県安来市広瀬町富田 |
|||
入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡 |
|||
城郭構造 | 複郭式山城 | |||
天守構造 | − | |||
築城主 | 佐々木義清 | |||
築城年 | 文治元年(1185)頃 | |||
主な改修者 | 尼子経久、堀尾吉晴 | |||
主な城主 | 尼子氏、吉川元春、堀尾義晴 | |||
位置 | 北緯35度21分39.42秒 東経133度11分6.94秒 |
|||
地図 | 1 | 太鼓壇 | ||
2 | 花ノ壇 | |||
3 | 山中御殿平 | |||
4 | 二ノ丸 | |||
5 | 本丸 | |||
100名城 スタンプ |
||||
【概要】 富田城跡は、島根県安来市広瀬町に残る、この地方を代表する広大な中世山城跡です。 富田城の始まりは、12世紀の後半、源頼朝が出雲の守護として佐々木義清を任命したこととされますが、尼子家三代の戦国武将によって富田城は最盛期を迎え、江戸時代の初期まで富田城は多くの変遷を繰り返しました。尼子氏は大内氏、陶氏、毛利氏との戦を繰り返しながら、因幡、石見、備後など11ヵ国にも及ぶ広大な領地を有しました。 しかし、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半もの間富田城に立て籠もっていたにもかかわらず、富田城は毛利氏の手に渡ってしまいます。1600年関ヶ原の戦いで徳川家に敗れた毛利氏は富田城を追われ、替わって徳川家康に味方していた堀尾吉晴が富田城に入りました。しかし山奥にある富田が出雲支配に不便なことから、堀尾氏は城を現在の松江城に移してしまいます。難攻不落と言われ、数々の武勇を生んだ名城富田城は、その後二度と城として使われることはありませんでした。 【感想】 戦国時代の中でも有名な城であり、尼子の地ということでとても感慨深い場所でした。 この場所に来ていかにこの城が難攻不落と呼ばれていたかも実感がわきます。 城だけではなく広瀬町全体に史跡があるので時間をかけて周ると良いでしょう。尼子好きにはたまらないお城です。 ただ難点は移動に公共機関を使用すると本数がないのでご注意ください。
|
スタンプ 設置場所 |
安来市立歴史資料館 | ||
登城日 | 2010年5月3日(月) | |||
LINK | 島根県やすぎ観光サイト |
|||
月山富田城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【平四つ目結】 (宇多源氏佐々木京極氏流) 尼子家家紋 |
|||
【三つ引両】 (藤原氏南家流) 吉川家家紋 |
||||
【抱き茗荷】 (高階氏後裔) 堀尾家家紋 |
※案内板より(加筆あり) |
||
【尼子経久公像】 | 【尼子興久墓所】 経久の三男。禄高の不足を父経久に訴え、これを聞き入れられなかったことから父にそむいたため、やがて父経久の手によって追放された。天文3年(1534)妻の実家にあたる備後甲山城主山内大和守直通方に身を寄せ、そこで切腹した。 |
【尼子時代の馬乗馬場跡】 |
【千畳平】 尼子時代の「勢揃い場」である。出張った石垣は櫓跡。 |
【尼子神社】 千畳平の一角に建つ。 |
【尼子氏之碑】 千畳平と太鼓壇の間の高台に建つ。 |
【山中鹿介幸盛像】 主君尼子義久が永禄9年(1566)11月、毛利に敗れた後、尼子勝久を擁して富田城奪回、尼子再興を期して孤軍奮闘の活躍をしたが、天正6年(1578)7月17日、夢ならず備中甲部川阿井の渡し(岡山県高梁市)において毛利の家臣、河村新左衛門、福間彦右衛門によって討たれ、34年の生涯を終えた。この銅像は昭和53年(1978)鹿介没して400年を記念して建立された。 |
【太鼓壇】 経久の頃、この丘に太鼓をつるした建物を建て時刻を知らせたり、また攻め太鼓として士気を鼓舞した太鼓のあった壇。 |
【奥書院】 |
【花ノ壇】 1994年の発掘調査で見つかった2棟の建物跡を参考にして、当時の侍所、郭を再現。当時の景観を体験できる場所として開放している。 |
【侍所】 花ノ壇は、敵の侵入を監視できることや、山中御殿との連絡が容易なことから、指導力のある武将が暮らしていたと思われます。 |
【花ノ壇堀切】 |
【通路跡】 往時の通路跡。 |
【花ノ壇石段】 | 【花ノ壇】 |
【山中御殿虎口の石垣】 | 【多門櫓跡】 | 【雑用井戸】 |
【菅谷口櫓跡】 | 【菅谷口】 | 【菅谷口】 |
【軍用道路】 ここから七曲がりへと続く。 |
【山中御殿跡(御殿平)】 大手門を上がったところに300平方メートルあまりの平地を御殿平といい、その昔、山中御殿といわれた建物のあったところで、上下2段にわかれている。富田城のもっとも重要な場所。 |
【大手門跡】 御子守口から山中御殿に至ると、石垣が大きく口を開けている所がある。ここが富田城の大手門跡といわれるところで、幅約15メートル、高さ約4.5メートルもあり、巨大な表門の存在をしのばせている。 |
【狭間塀跡】 |
【塩谷口虎口】 | 【塩谷口虎口】 |
【武者走り】 | 【山中御殿】 | 【七曲がり】 山中御殿から山頂への登山道。大きなカーブがいくつも続くためにこう呼ばれている。 |
【親子観音】 伝承では、堀尾家御家騒動の首謀者とされ、処罰されたとされる、堀尾河内守とその子掃部(一説では勘解由)両名の墓とされてきたが、堀尾勘解由の墓所の可能性が高いと考えられる。 |
【山吹井戸】 山の中から吹き出す井戸ということからこの名がついた。 |
【三ノ丸石垣】 登城道から見た三ノ丸石垣。 |
【三ノ丸石垣】 袖ヶ平から見た三ノ丸西側石垣。 |
【三ノ丸】 | 【二ノ丸】 |
【二ノ丸からの眺望】 | 【堀切】 二ノ丸と本丸の間。 |
【二ノ丸虎口】 屈折を繰り返した横矢掛りの虎口となっている。 |
【二ノ丸石垣】 | 【堀切】 本丸側から見た堀切。 |
【本丸】 |
− | ||
【山中鹿介幸盛記念碑】 月山山頂に建つ。 |
【勝日高守神社】 保元平治の頃(1156〜1159)平家の武将平景清が出雲に入り、月山に築城するに当たってお社ががあっては畏れ多いと里宮を移したのが富田八幡宮。現在山頂の勝日高守神社は里宮に対して奥宮。祭礼は春夏2回。 |
− |
【城安寺】 この道が菅谷口へとつながる。 |
【城安寺・山門】 | 【尼子氏奥都城】 尼子一族の墓所とされている所。尼子一門で、新宮党の末裔にあたる久富二六氏が祖先の地新宮谷を訪れ、尼子時代の尼子の夢をこの碑に託し、昭和16年(1941)この地に建立した。 |
【山中鹿介幸盛屋敷跡】 山中鹿介生誕の地である。 |
【塩治掃部介の墓(荒法師)】 塩治掃部介は尼子経久が京極氏から追放を受けた後、富田城の自代として入城したが、文明18年元旦、尼子経久の奇襲を受け、富田城内で討たれた。俗に荒法師と呼ばれ、昔からこの墓をみだりに荒らすと必ず祟りがあると言われている。 |
【新宮党館跡】 現在は太夫神社が建っている。 |
【新宮党屋敷跡】 新宮党は、尼子の強力な一門であったが、毛利氏に謀られた富田城主晴久によって滅ぼされた。 |
【尼子国久・誠久・豊久・敬久の墓】 新宮党屋敷跡・太夫神社にある。 |
【毛利元秋公墓所】 |
【堀尾吉晴公の墓】 巌倉寺にある。 関ヶ原の戦功により雲隠24万石を領し、慶長5年(1600)に富田城主となったが、慶長16年(1611)、城を松江に移した。同年6月17日、69歳で亡くなり、遺言によってこの地に帰葬された。 |
【山中鹿介幸盛供養塔】 巌倉寺に幸盛の遺徳を偲び、慶長7年(1602)堀尾吉晴公の御内儀(妻)によって建てられた。 堀尾吉晴の墓の左後にあります。 |
【洞光寺の尼子歴代追悼碑】 |
【尼子清定・経久両公墓所】 洞光寺にある。 向かって右側が清定公墓、左側が経久公墓。 |
【尼子清定・経久公墓所より見た月山富田城】 両公が今も月山富田城を見守っている。 |
【品川大膳墓所】 永禄年間、出雲に侵攻した毛利元成軍が富田城攻略すべく富田川対岸に布陣した。永禄8年(1565)毛利方の武将益田越中守藤包の臣、品川大膳は、尼子方の中でもその名も高い山中鹿介に一騎討ちを申し入れ富田川の中州で戦ったが敗れ、この地にほうむられた。 正面は碑、右側にひっそりあるのが墓。 |
【品川大膳墓所】 | 【川中島一騎討ちの碑】 山中鹿介と品川大膳とが一騎討ちした場所で、鹿介が大膳の首級をあげた場所と言われている。 |
【駅前のどじょうすくい像】 愛嬌がありますw |