城名 米子城(別名:久米城、湊山金城)
住所 〒683-0824
鳥取県米子市久米町
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明4重(1596年)・非現存
独立式望楼型4重5階(1601年)・非現存
築城主 山名宗之
築城年 応仁年間〜文明年間(1467〜1487)
主な改修者 吉川広家、中村一忠
主な城主 山名氏、尼子氏、吉川氏、中村氏、加藤氏、池田氏
位置 北緯35度25分31.07秒
東経133度19分26.31秒
地図 内膳丸
本丸・天守台跡
遠見櫓跡
水手御門跡
二ノ丸枡形門跡
続日本100名城
スタンプ
【沿革】
米子城は、伯耆国守護山名教之の配下、山名宗之によって応仁年間から文明年間(1467〜1487)に築かれたと伝えられる。その後、天正19年(1591)には、西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった吉川広家が新たに築城を開始したが、関ヶ原の戦い後、吉川広家が岩国に転封となった。このため、新たに伯耆18万石・米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長7年(1602)に完成させたとされる。絵図によると米子城は、天守と副天守(四重櫓)の二つが並ぶ威容を誇っている。一説によると、四重櫓は天守に先行する古い時代のもので、吉川時代のものとも尾高城から移築したものとも伝えられている。
中村氏により、城下町を含め整備された米子城であったが、中村氏の改易の後、慶長15年(1617)に加藤貞泰が入城、そして、加藤氏転封後は、池田光政一族の池田由之・由成と城主が頻繁に入れ替わる。池田光仲が寛永9年(1632)に因伯二国の領主となって以降は、鳥取藩家老職の荒尾氏が幕末まで米子城を預かるが、米子荒尾氏10代の成裕が「梅雨晴れや朝日に匂う久米ヶ城」とうたった米子城本丸の威容は、藩主が居城していた鳥取城を凌ぐものがありました。元和元年(1615)に江戸幕府が発した「一国一城令」において例外として存続が許された全国の支城のなかで、米子城のような天守をそなえたものは稀有な存在でした。
明治になって天守閣を始めに二ノ丸、三ノ丸を配して水濠(現在は埋め立てられている)で囲んだ典型的な平山城で、近世城郭として、その歴史的価値は高い。


【感想】
湊山山頂にある本丸の復元された石垣は、圧巻です。
そしてこの場所に五重天守と四重櫓が建っていたのを想像するといかにこの城が山陰一の名城と呼ばれていたがわかります。
天守閣跡からの眺望は素晴らしく、石垣の端に立つと脚が竦むくらいの景色です。
2017年には新たに登り石垣が確認され見ることが出来ます。
 
スタンプ
設置場所
米子市立山陰歴史館/米子城跡天守東屋
登城日 一回目:2010年5月4日(火)
二回目:2015年1月18日(日)
三回目:2018年5月2日(水)
LINK 米子市HP〜国史跡米子城跡
米子城-Wikipedia
城主家紋 【二つ引両】
(清和源氏新田氏流)
山名家家紋
【三つ引両】
(藤原氏南家流)
吉川家家紋
  【立沢瀉】
(桓武平氏良文流 [異説多し] )
中村家家紋

                      

 探訪
【二ノ丸・虎口】
湊山北裾にあり、高石垣で囲った2段の郭と枡形入口、虎口尾で構成される。
枡形入口川の表門に、冠木門と二重櫓を配していた。
【枡形門内部】
東西 25.44m、南北 22.72mの枡形内部。
【枡形・石段】
【旧小原家長屋門】
市内西町にあったものを移築。
小原氏は、米子荒尾家の家臣で禄高120石であった。
【二ノ丸・枡形門】
長屋門付近より撮影。
【御殿御用井戸跡】
綺麗な清水が湧きでるので御殿の用水んび使う車井戸があった。
【登城道】 【内膳丸・一段郭虎口】 【内膳丸・一段郭】
【内膳丸・二段郭虎口】 【内膳丸・二段郭】
丸山とも呼ばれ高さ52m中村時代の家老横田内膳正村詮が担当して構築したものであり、内膳丸と呼ばれる。二重櫓数棟の武器庫が設けられていた。
【本丸・天守台】
天守郭は、東側に二段、北側に一段控積み郭を持ち、五重の天守閣台、四重櫓台を配し、天守、四重櫓、鉄門櫓、多聞櫓、番所、冠木門を持ち、土塀を巡らしていた。
【番所跡】
御天守一帯を警備する役人詰所(7.27m×7.27m)があり、昼夜見張番が置かれていた。
【遠見櫓跡】
7.27m×9.09mの平屋櫓と、3.63m×3.63mの二重櫓が建てられており、着見櫓とも呼ばれる。
【水手御門跡】
出山附近に設けられていた船小屋へ通ずる道があった。
【本丸・北側控郭】 【天守郭虎口】 【天守台】
【天守閣礎石跡】 【本丸・東側控郭】 【内膳丸】
本丸より撮影。
【本丸東側控郭】 【鉄御門跡】
御天守の入口を厳重にかためる鉄張りの堅固な門がつくられている間口12.72m、奥行4.5m、二階建。
【本丸石垣】
【鉄御門櫓台と天守台】 【本丸虎口】 【米子城(湊山)全景】
【裏御門跡】
時刻や非常招集を告げるため、二ノ丸の裏門にあたるこの櫓の二階に大太鼓が置かれていた。
【二ノ丸跡】
城主が居住している御殿や、その台所などの建物と、藩の行政事務を取り扱う役所もあった。
【三ノ丸跡】
二回目-2015年1月18日(日)-
【飯山】
この山上に采女丸がある。それ以前は飯山城があったようである。
【湊山】
頂上は米子城本丸、石垣が遠くからでもよく見える。
【飯山(城)登り口】
【頂上まで続く石段】 【采女丸跡(飯山城址)】 【采女丸から見た大山方向】
【采女丸から見た本丸】 【采女丸から見た本丸(拡大)】
草木が駆られていれば眺望は最高なのに…
【湊山中腹にある中海展望台】
正直草木が邪魔である。ここより本丸から見た方が見渡せます。
【本丸・水手御門跡】 【本丸・水手御門跡】 【天守郭虎口】
【天守郭虎口】 【天守郭虎口の門跡】 【天守郭より見た中海】
【天守跡】 【天守跡越しに見える大山】 【大山アップ】
【天守台】 【天守台】 【天守郭より見た鉄御門方向】
【鉄御門跡内からみた大山】 【鉄御門跡】 【番所跡】
三回目-2017年5月2日(水)-
【旧小原家長屋門】
雨漏りでもしているのだろうか修繕されるようですね。
【登り石垣】
2017年4月、山の尾根上に沿って築かれた「登り石垣」が長さ約40mにわたって確認されました。
石垣は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592〜1598年)のころとみられ、日本海側の中海に面して築かれていることから市教委は「朝鮮半島からの兵に備えたのではないか」と話しているそうです。
【登り石垣】
石垣は、長さ約40m、高さは3m以上。長さは約100m以上だった可能性があるという。
瓦が出土していることから、石垣の上に塀なども立っていたらしい。
【登り石垣】 【中海展望所へ続く城道】 【登り石垣横の分岐】
【清洞寺跡】
ここに群立する巨岩は、以前、中海に浮かぶ岩島で、亀島と呼ばれていた。慶長15年(1610)、加藤貞泰が米子城主となり、朝鮮役で戦死した父光泰のため本源寺を建立し、併せて五輪塔も作った。右側の一基ががそれである。
加藤氏は、在城9年間で、伊予大洲へ転封された、元和3年(1617)、池田由成由成が城主を命じられ、亡き父母のため五輪二基をつくり、海禅寺を建立した。左側が父由之、中央が母のものである。
その後、改名され現在に至る。
【回船問屋後藤家住宅】(重要文化財)
後藤家は、戦国時代末期、石見国から移住し、江戸時代に海運業を営み、藩の米や鉄の回漕の特権を与えられた回船問屋であった。
回船問屋を営んでいた頃の広い玄関をもつ主屋は、平屋構造、一部二階建、土蔵造り、切妻屋根で、屋根前面は、この地方の民の民家としてはただ一つの本瓦葺になっている。
中庭に面して鴬張りの切目縁がある。一番蔵は、二階建、桟瓦葺になっている。ともに18世紀の建築である。
【米子城の鯱】
この鯱は、小天守閣(四重櫓)は今から157年前の嘉永5年(1852)痛みがひどく、本家鹿島・分家鹿島両家の拠出金により修理が行われた際、古い鯱は記念として両鹿島家に渡り、それぞれに保管され現在に至っている。
【ジャンル】ラーメン
【店名】むさし
【場所】鳥取県米子市中町84
【TEL】085-922-3843
【営業時間】11:00〜21:00
【品名】天然きのこラーメン

【感想】
昔からある米子市内の人気ラーメン店らしい。
ご主人が大山からとってきた天然のきのこをふんだんに使用したラーメン。豚骨ベースで昆布等を入れたスープは力強い味です。表面に浮かんだ脂がスープを膜のように覆っているので最後までスープが冷めることなく食べられます。
きのこの中に、山菜のゼンマイなんかも入っていてその苦味がいいアクセントになっています。




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