powered by 地図Z |
城名 | 鳥取城(別名:久松城) | ||
住所 | 〒680-0011 鳥取県鳥取市東町 |
|||
入場時間 | 仁風閣 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) 休館日:毎週月曜日(祝日は開館) 祝日の翌日、年末年始 |
|||
入場料 | 仁風閣 一般:150円、団体(20人以上)120円 |
|||
指定文化財 | 国指定史跡 |
|||
城郭構造 | 梯郭式平山城と山城 | |||
天守構造 | 独立式望楼型3重(1573年頃) 複合式層塔型2層2階地下1階(1605年改)(非現存) |
|||
築城主 | 因幡山名氏(山名誠通)または、但馬山名氏(山名裕豊) | |||
築城年 | 天文年間(1532〜1555) | |||
主な改修者 | 吉川経家、池田長吉 | |||
主な城主 | 山名氏、吉川氏、宮部氏、池田氏 | |||
位置 | 北緯35度30分26.73秒 東経134度14分24.0秒 |
|||
地図 | 1 | 二ノ丸・三階櫓跡 | ||
2 | 天球丸 | |||
3 | 山上ノ丸・天守台 | |||
4 | 二ノ丸・菱櫓跡 | |||
5 | 中仕切門 | |||
100名城 スタンプ |
||||
【歴史】 戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ、永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し、下剋上を果たした。高信はその後も主筋の山名豊国(豊数の弟)としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。 天正元年(1573)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ山名豊国の攻撃を受け、劣勢の高信は和議を結び城を明け渡すも、まもなく豊国により謀殺される。因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されるが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ豊国は降伏、市場城主・毛利豊元が城主となる。しかし、1574年(天正2年)再度尼子残党に攻められ降伏、1575年(天正3年)、芸但和睦で毛利の力が鳥取に直接及ぶようになるとその手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き山名豊国が城主に落ち着く。 天正8年(1580)に織田方の第一次鳥取城攻めで3ヵ月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担)の末、和議により降伏し9月豊国が織田信長に臣従した。しかし、同月毛利の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。天正9年(1581)、天下制覇を目指す織田信長の先鋒として、羽柴秀吉の山陰侵攻が必至となりました。この情勢に対応して、鳥取城を守る軍勢は、吉川の一門に繋がる有力な武将の派遣を毛利方に懇請しました。山陰方面の総大将・吉川元春はこれにこたえて、石見国福光城主・吉川経安の嫡男経家を鳥取城の城将に任命し、経家はこの年3月、部下四百余人を率いて鳥取城に入城しました。 天正9年(1582)4月、因幡守護山名豊国は織田へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。残存する山名旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の武将で中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉は二度目の鳥取城攻撃をすることとなる。 これを受けて秀吉は、攻め落とすのに苦労をした三木城攻めの教訓を活かし、「飢(かつ)え殺し」といわれる用意周到な兵糧攻めを展開します。まず因幡・伯耆国内の米の買い占めを行うため、若狭の商人に時価の数倍で米を買って回らせ(この時、鳥取城内の兵糧も売ってしまっていたようです。)、米収穫前の7月上旬に2万の軍勢を率いて鳥取城を包囲しました。その際、領内の住民が鳥取城内に逃げ込むように仕向けました。城内には2千〜4千の兵と民が立て籠もり、城には20日分の食料しかありませんでした。そして千代川河口に砦を築き、鳥取海上には船3百艘余を浮かべ、毛利の救援船を寄せ付けず、ひたすら城内の兵糧が尽きるのを待ったのです。毛利方も何とか兵糧米を城内に送り込むため、あるとき秀吉の包囲網の強行突破を試みますが、失敗に終わります。城内の家畜、植物などは食い尽くされ、9月が過ぎると餓死者が続出し、人肉を食らう者まで現れた。信長公記にはこう記されている。「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず。」経家はこの凄惨足る状況に自分の命と引き換えに城兵助命の条件で降伏を決意します。秀吉は経家でなく山名豊国を追放し籠城し続けた重臣の中村春続と森下道誉の切腹を要求しましたが、経家は「責任はあくまでも自分にある」として譲らず、秀吉もそれを承諾しました。 経家は10月25日、久松山山麓の寺で検使・堀尾吉晴が見守るなか切腹します。享年35歳でした。結局、春続と道誉も切腹させられます。経家が子にあてて「鳥取のこと、夜昼二百日こらえ候。兵糧二つき果て候まま、我ら一人御用にたち、おのおのを助け申し、一門の名をあげ候」と記した遺言状には、死を恐れず、名誉を何よりも重んじる当時の武将の気風がみなぎっています。 その後、経家や山名旧臣に代わり、浅井氏の旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点とした。その後継潤は豊臣政権に代わった天正13年(1585)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となった。その後も継潤は、九州平定後五奉行として連署するなど(宮部法印、前田玄以、富田知信、増下長盛、石田三成)秀吉与力として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕え、子の宮部長房が所領を受け継ぐが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に所属したため改易。 代わって関ヶ原の戦いの功により近江甲賀郡水口から池田長吉が6万石で入り、彼によって近世城郭に改修された。元和3年(1617)、池田光政が32万5千石で入府、彼によって城下町の整備が行われた。その後備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えた。 【感想】 鳥取城の「飢え殺し」あまりにも有名で、兵糧攻めにあう城の規模は大きくはないだろうとたかをくくっていましたが、実際に来てみると大改修を受けているとはいえ、その規模は大きく、力攻めでは落とせない城だとわかります。そのための作戦が兵糧攻めだったこともわかりました。 この城には今も経家の精神が宿っているように感じます。 |
スタンプ 設置場所 |
仁風閣 | ||
登城日 | 一回目:2010年5月5日(水) 二回目:2017年4月29日(土) |
|||
LINK | 鳥取市観光協会HP |
|||
鳥取城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【二つ引両】 (清和源氏新田氏流) 山名家家紋 近世山名家「糸輪に二つ引両」 ↓ |
|||
【三つ引両】 (藤原氏南家流) 吉川家家紋 近世吉川家「九曜紋」 ↓ |
||||
【桐】 (桓武平氏土肥氏一族?) 宮部家家紋 |
※加筆あり |
||
【鳥取城(久松山)全景】 | 【吉川経家公像】 | 【吉川経家公像と久松山】 ※後ろにあった建屋が無くなっていました。 |
【内堀】 経家公像前より撮影 |
【復元改修が進む大手口】 内堀の水も半分塞き止めて抜かれていました。。 |
【復元予想図】 2022年に完成予定 |
【中ノ御門】 大手登城路。城の正面玄関にあたり、藩主の入城時などに開かれる特別な門。 |
【丸の内】 米蔵が置かれていた場所。 |
【御番小屋跡】 現在は休憩所、トイレになっている。 |
【北ノ御門跡】 | 【城代屋敷跡・上御厩跡・米蔵跡】 現在は鳥取県立博物館が建っている。 |
【中仕切門】 鳥取大地震で倒壊したが復元された中仕切門が当時の面影を今に伝えます。 |
【二ノ丸石垣】 | 【二ノ丸下の郭】 | 【二ノ丸の登り石垣】 |
【三階櫓台】 | 【三階櫓台】 この櫓台には、一階八間四方、二階六間四方、三階四間四方の櫓が建てられていた。元禄5年(1692)に山上ノ丸の天守櫓が焼失した後は、この櫓が鳥取城を象徴するものとなり、明治12年の解体撤去までその偉容を誇った。 |
【三階櫓跡】 |
【二ノ丸・二之丸御殿跡】 藩主の居館があった。 |
【走櫓跡】 | 【菱櫓跡】 菱櫓は平面形が菱形に構築された櫓台の上に建物が建てられ、建物も菱形であった。櫓台には二層の櫓が建ち一階は四間四方であった。 |
【表御門跡】 | 【菱櫓台】 | 【天球丸下の曲輪】 楯蔵が置かれていた場所。一部改修中。 |
【天球丸下の曲輪】 | 【天球丸の丸巻石垣】 天球丸の石垣が孕んできたために補修を重ね日本で唯一の球面石垣が出来上がりました。 |
【楯蔵跡】 |
【太鼓御門櫓跡】 三ノ丸入口に位置する城内の重要な櫓門で、中ノ御門を通って登城した家臣は、次にこの太鼓門を通って二ノ丸、三ノ丸の御殿に上がりました。 |
【三の丸跡】 池田長吉の時代に鳥取城大改造によって築造されたもの。 池田三代吉泰の時、区画を拡張し、新たに三ノ丸に御殿を建て藩主の居館とした。よって藩政の中心も二ノ丸から三ノ丸に移った。 |
【太鼓御門跡】 |
【二ノ丸石垣】 ここから二ノ丸の裏御門に通じる。 |
【三階櫓下の「お左近」の手水鉢】 お左近の手水鉢を石垣に築きこんだところ、難工事であった三階櫓も、無事完成したという伝説が残る。 しかし、どれが手水鉢なのかわかりませんでした。 |
【裏御門跡】 |
【裏御門礎石】 | 【八幡神社】 二ノ丸裏手にあり、この奥に山上ノ丸へ続く「中坂」と呼ばれる登城道がある。 |
【大菱櫓跡】 |
【天球丸跡】 御風呂屋御門付近。 |
【天球丸井戸跡】 | 【池?】 |
【天球丸跡】 慶長5年(1600)の石ヶ原の戦いの後、鳥取城主になった池田長吉の姉、天球院に由来する曲輪。 |
【天球丸三層櫓跡】 | 【丸巻石垣】 |
【山上ノ丸へ続く中坂登城道】 | 【山上ノ丸へ続く中坂登城道】 | 【山伏井戸】 |
【山上ノ丸石段】 | 【山上ノ丸・三ノ丸跡】 | 【山上ノ丸・二ノ丸跡】 |
【山上ノ丸・本丸虎口】 | 【山上ノ丸・本丸跡】 | 【車井戸】 池田長吉が慶長7年(1602)から行った大改築の時に掘った井戸と伝えられます。 |
【山上ノ丸・天守台】 | 【山上ノ丸・天守跡】 | 【山上ノ丸・天守跡からの眺望】 遠くに鳥取砂丘が見える。 |
【山上ノ丸・天守跡から見る鳥取砂丘】 | 【山上ノ丸・出丸跡】 | 【仁風閣から見た三階櫓台】 |
【仁風閣】 扇御殿跡。 |
【仁風閣】(重要文化財) 大正天皇(当時皇太子)の山陰行啓に際し、当地の宿舎として旧鳥取藩主池田氏が城跡に建てたもので、片山東熊の設計と伝える。ルネッサンス様式を基調とした木造二階建で、飾り破風の扱いなど意匠が優れており、細部の保存もよい。山陰地方における数少い明治洋風建築の遺構として貴重である。 |
【仁風閣】 |
【宝隆院庭園】 回遊式庭園。 |
【宝隆院庭園】 | 【仁風閣から見た宝隆院庭園】 |
【仁風閣・螺旋階段】 | 【仁風閣・御座所】 | 【仁風閣・御食堂】 |
【ジャンル】駅そば 【店名】砂丘そば 【場所】JR鳥取駅構内 【品名】砂丘そば 【感想】 そばは出雲そばに近い触感でした。 上にのっているのは、飛魚(あご)竹輪、シンプルなそばでしたが美味しかったです。 |
||
【ジャンル】居酒屋 【店名】鮨炉端 日本海 【場所】鳥取県鳥取市栄町709-1 (鳥取駅北口徒歩1分) 【TEL】 0857-22-0106 【営業時間】16:00〜24:00 【定休日】日曜日 【品名】 猛者海老の塩焼き、なめろう、鳥取地酒飲み比べセット、前浜鮨八貫 【感想】 鳥取ならではの猛者海老やのどくろ等を新鮮でリーズナブルに味わえます。 |