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※地図と写真で位置にずれがあります。赤線は大体の位置になります。
城名 鬼ノ城(別名:神籠石式山城)
住所 〒719-1101
岡山県総社市奥坂、黒尾
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 神籠石式山城
天守構造 なし
築城主 大和朝廷が有力
築城年 7世紀後半説が有力
主な改修者 不明
主な城主 不明
位置 北緯34度43分35.53秒
東経133度45分46.49秒
地図 西門跡
角楼
屏風折れ石垣
礎石建物群
展望台
100名城
スタンプ
【概要】
動乱に明け暮れる7世紀後半の朝鮮半島で、百済に援軍をおくっていた日本は、663 年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗しました。
唐・新羅の日本侵攻を恐れた朝廷は、早急に北九州から瀬戸内沿岸、畿内にいたる国土防衛の施設を築く必要がありました。鬼ノ城もそれらの一つとする考えが有力です。
鬼ノ城は、標高 400〜 600mの吉備高原の南縁に築かれています。眼下には古代吉備の中枢地たる総社平野と足守川中流域平野を望み、快晴時には瀬戸内から遠く四国の山並み望見される遠望絶景の地に立地しています。
古代山城は、朝鮮式山城と神籠石と呼ばれるものがありますが、どちらも朝鮮半島に起源を求めることができます。城壁は、要所に高石垣を交えつつ、強固な土塁を2 .8Kmにわたって巡らせています。城壁は幅約7m、高さ約6mあり、外・内側に平たい石が1.5 m幅で敷かれています。この敷石は城壁を守るために設けられたと考えられます。
城壁の谷部には水門が設けられています。現在6か所確認されており、いずれも下半部が石垣、上部が土塁の構造です。この水門は城内の水を管理するための排水口です。
城門は東西南北の4か所にあり、いづれも通路部分に敷石があります。西門・南門はほぼ同規模の門で、12本の柱で支えられた楼門と考えられます。西門の近くには角楼と呼ばれる防御施設があります。城内は、30haに及ぶ広大さで、城庫とみられる礎石建物跡も6から7棟発見されています。
攻めるに難しく、守るに易い地に、堅牢で緻密な城づくりをした難攻不落の古代山城です。

<地名の由来>
鬼ノ城は,古代の正規の歴史書には登場しないが,後世の文献である鬼ノ城縁起などにでてくる。それによると「異国の鬼神が吉備国にやって来た,彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え,しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり,婦女子を掠奪したので,人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び,都へ行ってその暴状を訴えた・・・」。これが,一般に温羅伝承と呼ばれる説話で,地名もこれに由来している。

<構造と規模>
鬼ノ城は,すり鉢を伏せたような形の山で,斜面は急峻だが頂部は平坦である。この山の八合目から九合目にかけて,城壁が2.8kmにわたって鉢巻状に巡っている。
城壁は,一段一列に並べ置いた列石の上に,土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で,平均幅約7m,推定高は約6mもある。要所には堅固な高い石垣を築いており,その威圧感は天然要害の地であることとあわせ,圧倒的な迫力をもっている。このように,版築土塁や高い石垣で築かれた城壁は,数m〜数十mの直線を単位とし,地形に応じて城内外へ「折れ」ていることに特徴がある。
城壁で囲まれた城内は比較的平坦で約30haという広大なもので,4つの谷を含んでいるため,谷部には排水の必要から水門が6ヶ所に設けられており,また,出入り口となる城門が4ヶ所にある。城内には,食品貯蔵庫と考えられる礎石建物跡やのろし場,溜井(水汲み場)もある。
この他に城内には貯水池とみられる湿地が数ヶ所ある。さらに兵舎,各種の作業場なども予測されるが未発見である。


【感想】
ビジターセンターからほどなくして展望デッキに出ます。ここから見る鬼ノ城は西門を中心に復元された城壁などが良く見えるので、寄り道ですが是非寄ってください。
復元個所以外は知識がある程度ないとただの散策になってしまうかも。
ただこの時代にここまでの石垣があるのかと思うほどびっくりする屏風折り石垣は必見です。
スタンプ
設置場所
鬼城山ビジターセンター
登城日 2010年5月7日(金)
LINK 総社市観光情報-鬼ノ城-
鬼ノ城-Wikipedia
城主家紋

                      

  
探訪
【復元された西側城域】 【西門跡】
平成8年度の調査で新たに発見された城門である。正面3間(12.3m),奥行2間(8.3m)の大規模な城門で,中央1間が開口する。
12本柱で構成される堀立柱城門で,開口部の床面は大きな石を敷いており,その両側に6本の角柱が立つ。門扉のつく柱は,一辺最大60cmもあり,これに精巧な加工をした門礎を添わせている。門礎には方立・軸摺穴・蹴放しが刻まれている。両側の門礎とも原位置を保っていることから,開口部は間口約4mで,うち3mが出入口となる。
扉は内開きである。扉を開け,4段の石段を上がると城内となるが,ほぼ3mか間隔で4本の柱が立っている。この柱は,城内の目隠しと敵兵を分散させる板塀の柱と思われ,大野城(福岡県)大宰府口城門でも見つかっている。
【角楼跡】
かつてここには,裏門的な門跡の存在が推定されていたが,平成8年度の発掘調査で城門ではなく,特殊な遺構であることが判明した。
ここは,南北両方から入り込んだ谷の頭部にあたる背面側の要地で,正面側約13m,奥行側約4mが前方へ突出した長方形の張り出し部が,城壁に付設されている。張り出し部の下部は,推定高さ約3mの石垣とし,その上部は土積みであったようで,張り出し部の本来の高さは約5m以上と推定される。石垣の間にはほぼ4m間隔で,一辺約50cmの角柱が立つ。張り出し部の外側には,通路のような幅1.5mの敷石が巡っており,また,城内側には角楼への昇降のための石段もつけられている。
張り出し部をもつこの遺構=角楼は,背面からの攻撃に備えるとともに西門防備をも意図した重要な防御施設と考えられる。
なお,角楼の存在,石垣の間に立つ柱,敷石が巡っていることは,日本の古代山城では初の発見例である。
【西門跡】 【西門付近城壁】 【西門跡・内側】
【敷石】
板状の石を敷き詰めて通路状としたもので、城壁に沿って内側と外側の両方にある。幅1.5mで通路というよりも、城壁が流水によって壊されることを防ぐための施設であるらしい。
お敷石は、日本の古代山城では鬼ノ城にしかみられない。
【西門城壁】
鬼ノ城は、頂上部から斜面に変わるあたりに鉢巻をしめたように2.8kmにわたって城壁が築かれています。
【西門高石垣】
要所である六ヶ所には高石垣が築かれている。
【第0水門跡】
城内に4つの谷があるため、谷水の処理が必要であり、6ヶ所に水門が設けられている。
水門は、外面の下部を石垣積み、上部は版築工法による土積みで、背面は石垣積みである。
通水溝は石垣最上部につくられており、これは他の古代山城にみられない鬼ノ城の水門の特徴である。
【鬼ノ城南東部からの眺望】 【通路跡】
【第一水門跡】 【第二水門跡】 【南門跡】
西門跡と同構造・同規模の12本柱からなる堀立柱城門である。開口部の大きさも西門跡とほぼ同じだが,門扉の柱は一辺最大58cmでわずかに小さい。城内へは高低差があるため,7段の石段がつけられているが,眼前には高さ5mの尾根があり,行く手を阻んでいる。城内壁に沿って,開口部の両側に敷石があるが,その一部は城壁上の敷石である。城壁中に柱列(塩化ビニールで代用)があるが,これは板塀用の柱と考えられる。
この門の正面は急斜面となっており,どの位置から出入したのかはっきりしない。
南門は,廃棄後焼失しているが,西門も同様に廃棄後焼失している。
【南門跡】 【第三水門跡】 【第三水門跡】
【突出部の内側列石】 【突出部全景】 【第四水門跡】
第四水門の通水溝は欠失しているが、これは谷が大きく水量が多いため壊れたものである。
【東門跡(旧第一城門跡)】
鬼ノ城で最初に発掘調査した城門跡である。開口部の床面を石敷きにしているのは,ほかの城門と同じだが,柱の数や種類は異なり,正面1間(3.3m),奥行2間(5.6m)の6本柱からなる掘立柱城門である。柱の大きさは最大径58cmの丸柱の多用が目立つ鬼ノ城では異質ともいえる。城内には20×15mの一枚岩の巨岩があり,行く手を遮っている。南門跡の尾根と同じ役割を果たしているのであろう。城壁中に5本の柱列があるが,南門の例と同じ板塀用の柱と考えられる。
【東門跡】 【屏風折れ石垣】
【第五水門跡】 【第五水門跡】 【屏風折れ石垣】
鬼ノ城で著名な高石垣です。血吸川の急崖上に舌状んび構築されており、内側列石や敷石が残っていることから、建物等は存在しない可能性が高いと考えられます。
【屏風折れ石垣上】 【屏風折れ石垣下の谷】
この下に血吸川が流れる。
【屏風折れ石垣】
【屏風折れ石垣上】 【温羅舊跡碑】 【北側土塁】
【北門跡】
一辺最大55cmの角柱を用いた掘立柱城門で,門に伴う柱が6本,正面1間,奥行2間ないし三間の城門と考えられる。開口部の床面が敷石なのは,他の城門と同じである。
【北門跡】 【北門付近の石垣】
【礎石建物跡】
城内の中央部で,7棟が確認されている。礎石をもつ総柱の建物で,食品貯蔵庫と推定される。
【礎石建物跡】 【礎石建物跡】
【鬼城山山頂付近から見た西門】 【角楼】 【西門】



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