城名 | 備中高松城 | |||
住所 | 〒701-1335 岡山県高松558-2 |
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入場時間 | 高松城址公園史料館 開館時間:午前10時〜午後3時 休館日:月曜日 |
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入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 梯郭式平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 石川氏 |
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築城年 | 不明 | |||
主な改修者 | ? | |||
主な城主 | 石川氏、清水氏、花房氏 | |||
位置 | 北緯34度42分34.8秒 東経133度49分19.36秒 |
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【沿革】 高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)の中国の役の主戦場となった城跡として有名である。 城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田等の地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。縄張りは、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二ノ丸が南に並び、さらに三ノ丸と家中屋敷とが、コの字状には以後を囲む単純な形態である。 本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。 <高松城水攻略史> 天正10年(1582)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、3万の大軍をもって備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城の城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中に囲まれた平城で、水面との比高わずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史に稀な水攻を断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3kmに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188haの大湖水ができ、城は孤立した。 6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国寺恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない、宗治の首級だけで城兵の命を助ける」という条件で宗治を説かした。宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明日4日切腹する」と自刃を承諾した。 時に6月4日巳の刻(午前10時)宗治は自刃することが決まると、城内にはまともな小船がなかったのか、秀吉陣に小船を用意して欲しいと願い出ています。家臣達には城内をくまなく掃除させ、後の事や城明け渡しの事を指示し、自らも篭城で伸びたヒゲを抜かせていたと伝えられています。どうしてヒゲを抜くのかと聞いた者には、秀吉に笑われては恥じだと言ったそうです。また、宗治と共に自刃を願い出た家臣には、主君(毛利)の為にたった1人の武士でも残らなければならないと諭しています。 そして6月4日朝、秀吉の用意した小船に兄の月清入道、末近信賀(毛利より加勢)、弟の難波伝兵衛、家来の白井与左衛門、高市之允、介錯人の国府市正と乗り込みました。秀吉から頂戴した酒を酌み交し、誓願寺(舞)を舞った後 「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」 時世の句を詠んで切腹、月清入道らも次々と切腹し、宗治の首は秀吉の家臣である堀尾茂助に渡され、秀吉の陣へ届けられました。 【感想】 大規模な水攻めがされた場所、地形を見ると水攻めがいかに効果的だったかがわかります。蛙ヶ鼻築堤を見に行くと高松城との高さの比較ができます。 清水宗治の自刃の地や首塚、そして探せなかった洞塚も近くにありとても感慨深い場所でした。 |
100名城 スタンプ |
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スタンプ 設置場所 |
高松城址公園史料館 | |||
登城日 | 一回目:2010年5月7日(金) 二回目:2019年5月4日(土) |
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LINK | 清水宗治web | |||
備中高松城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【飛び鶴】 (清和源氏頼親流か?) 備中石川家家紋 |
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【三つ盛り三つ巴】 (田使首難波氏族/平氏後裔とも?) *宗治の子孫で毛利氏に仕えた清水氏の紋。 備中清水家家紋 |
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【尻合せ三つ雁金】 (清和源氏足利支族) 花房家家紋 |
※想像復原図(案内板より) |
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【舟橋跡】 城の南手口には、具足の武士がようやくすれ違うほどの細い道があったが開戦直前に八反堀を堀外濠とした。そこへ舟を並べて舟橋(長さ約64m)となし、城内より進攻の際はこれを利用し、また退く時は舟を撤去できる仕組で城の西北の押出式の橋と共に大きく防備の役を果たしていた。 |
【八反堀跡】 | 【ごうやぶ】 三ノ丸総門の脇にあり、6月4日死出の宗治等の舟を追って宗治の僕七郎二郎と月清の馬の口取興十郎とが「一足先に三途の川川でお待ち申します」と互いに刺し違えて殉死した所という。 |
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【清水宗治自刃の地】 高松城の三ノ丸跡になる。 |
【高松城跡案内板】 | 【三ノ丸跡】 | |
【高松城址公園史料館】 | 【備前焼の清水宗治公】 | 【二ノ丸跡】 | |
【本丸跡】 | 【本丸跡】 | 【宗治辞世の句碑】 | |
【宗治公首塚】 本丸跡に建つ。 |
【高松城址碑】 この碑の右側道を挟んだところが二ノ丸跡になる。 |
【備中高松城案内指標】 | |
【太閤岩入口】 この先に本陣跡もあります。 |
【登城道】 | 【宗治公首塚跡】 備中高松城の本丸跡にある首塚はここから移されたものです。 |
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【宗治公首塚跡】 | 【宗治公首塚跡】 | 【秀吉本陣跡・持宝院跡】 | |
【秀吉本陣跡】 | 【本陣跡から見た備中高松城跡】 秀吉もここから水に浸る備中高松城を見ていたのでしょう。 |
【秀吉公の軍馬繋留地跡】 今は木々が生い茂り良く見えません。 |
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【太閤岩入口】 | 【太閤岩】 この岩は、天正十年(1582)に、羽柴秀吉が織田信長の命により、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を攻めた時の、秀吉ゆかりの伝説の地である。 |
【太閤岩】 備中高松城の水攻めの際に、秀吉は龍王山から石井山に本陣を移したが、付近にあるこの大岩が着目され、作戦上の目標物として活用したのではないかと言われている。 |
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【蛙ヶ鼻築堤跡】 現在は高松城水攻め史跡公園となっている。 |
【蛙ヶ鼻築堤跡】 | 【蛙ヶ鼻築堤跡】 | |
【築堤跡上】 | 【水攻堤跡碑】 | 【蛙ヶ鼻築堤跡】 |