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※地図上のマーク、線はおおよその位置を示したものです。
城名 茨木城
住所 〒667-0811,0819、0818、0882
大阪府茨木市上泉町・片桐町・本町・元町
入場時間
入場料 無料
指定文化財
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 不明(天守台と称される土地あり)
築城主 楠正成?
築城年 建武年間(1334〜1336)
主な改修者 中川清秀
主な城主 茨木氏、中川清秀、片桐且元
位置 北緯34度49分14.68秒
東経135度34分16.20秒
地図 茨木神社・東門(移築搦手門)
復元櫓門
主郭部
茨木川(水濠)跡
【沿革】
楠正成により建武年間(1334〜1336)に築かれたといわれるが定かではない。
その後、茨木氏が居城した。16世紀には管領細川高国と摂津守護細川晴元の抗争に茨木家俊は高国方に与して敗北する。
しかし、天文17年(1548)には茨木孫三郎が晴元の執事三好長慶と合力して細川政元を倒す。永禄11年(1568)の織田信長の摂津入国に茨木氏は信長に臣従し、本領を安堵される。現在の殿町付近がその居館と推定され、殿町は城畠と呼ばれる方形区画で、方形館であった可能性が高い。

元亀2年(1571)、白井河原の合戦で茨木孫三郎が討死すると荒木村重の子相次が一時茨木城に入城するが、中川清秀が入り城主となった。天正11年に賤ヶ岳合戦で清秀が戦死すると、その子秀政が城主となる。
天正14(1586)年、中川氏が播磨三木城に転封となると、豊臣秀吉の直轄地となった。

関ヶ原の戦いの後、片桐且元が12000石で入城する。且元は大阪方と徳川方の間に入り、何とか豊臣家の存続を図るが、豊臣家中から家康への内通を疑われ茨木城を捨て江戸へ下向した。
大阪の陣で豊臣氏が滅亡した後、且元が没すると共に弟貞隆は大和の所領に小泉陣屋を築き移っていった。
元和一国一城令により茨木城は廃城となった。

最盛期(1600年頃)、茨木城の城郭は源茨木小学校北部に本丸があり、東西200メートル余、南北300メートルの堂々たるものであった。西側には茨木川がありそれをそのまま堀とし、東・南・北二も堀を縦横に張り巡らされていた。



【感想】
遺構は殆どないが移築された門と復元された櫓門を見ることが出来る。茨木小学校内には碑もあるようですが、入るには許可が必要でしょう。また復元櫓門の撮影にも登下校時は避けた方が良いでしょう。

登城日 2011年3月11日(金)
LINK 茨木神社HP
茨木城-Wikipedia
城主家紋 【中川久留子】
(清和源氏頼光流)
中川家家紋
【丸に鷹の割羽】
(清和源氏満快流)

片桐家家紋

                      

探訪
【茨木神社】 【茨木神社・東門】
茨木城の搦手門を移築したものと伝えられる。
【茨木神社・東門】
【茨木小学校】
茨木城の主郭部分に当たる。この北側に本丸があった。
【復元櫓門】
茨木小学校に復元された。本物は奈良県大和郡山市小泉町にある慈光院の表門として移築されている。




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