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※地図と写真で位置にずれがあります。赤線は大体の位置になります。
城名 高取城(別名:芙蓉城、鷹取城、高取山城))
住所 〒635-0101
奈良県高市郡高取町高取
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 連郭式山城
天守構造 連立式3重3階地下1階(非現存)
築城主 越智邦澄
築城年 元弘2年(1332)
主な改修者 筒井順慶、本多利久
主な城主 越智氏、筒井氏、本多氏、植村氏
位置 北緯34度25分45.99秒
東経135度49分36.57秒
地図 天守跡
本丸跡
二ノ丸跡
大手門跡
三ノ丸跡
100名城
スタンプ
【概要】
高取城は別名、芙蓉城ともいわれ近世山城の典型としてよく知られ、「巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」とうたわれている。築城年代に関しては元弘2年(1332)との説もあるが確実ではない。しかし、南北朝時代、南大和に大きな力を振るった越智氏の支城の一つとして築かれたことは疑いない。元弘の頃に一時子嶋氏の居城となり、さらに越智氏の居城となった。

城の形態としては永正から天文(1504〜1554)の頃に、整備されたと見るべきだろう。当初の頃は越智氏にしても高取城をたんに、越智城、貝吹山城に対する出城としか考えていなかったようであるが自然的要害の条件を備えているところから次第に本格的なものとして重視されるに至ったようである。

越智氏なき後、織田信長の城郭破却令によって廃城となっていた高取城の復活が筒井順慶によって企図され、天正12年2月高取城を出城と定め郡山城ともども工事を進めたのであった。この一国的規模での本城-出城主義の方針は豊臣秀長にも引き継がれ、本格的に近世城郭としての高取城が築かれたのは、百万石の大名として郡山城に入った豊臣秀長の時代であった。その後の歴代城主は本多氏が寛永14年(1637)三代で断絶し、寛永17年10月植村氏が入城し、明治維新を迎えたのである。

城跡は、標高583.3メートルの山頂部を本丸とし以下二ノ丸、三ノ丸、大手郭。吉野口曲輪、壺坂口曲輪が連なっている。それに隣接する外郭部は侍屋敷群と放射線状にのびる大手筋、岡口、壺坂口、吉野口の入口があった。これら主体部はかつて土塁、柵、空堀等により、段丘上の削平地に築かれた中世城郭の城域を一部拡大したものであったろう。その意味で現存する、内郭、外郭の縄張りは兵法を強く意識した近世城郭の完成期の特徴を示す構造になっている。例えば、矢場門から宇陀門、千早門そして大手門の門台石組遺構に見られるようにいずれも右折れ虎口(入口)として配置されている。

その他、本丸の枡形虎口の精緻さや本丸の各隅角部石垣に利用された転用石材(寺院の基壇石、古墳石室の石材等)も特記されよう。また本丸、鉛櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣下に配列された胴木の存在は山城でのい遺構例として唯一の発見例として注目すべきものである。

ところで廃城後の建造物についてはそのほとんどが明治中期に取り壊された。石垣はほぼ今日まで原形を残しているが、一部崩壊や歪の激しい箇所の修理を昭和47年以降繰り返し実施している。
※二ノ丸説明板より

本丸は大小二棟の天守閣と鉛櫓、焔硝櫓を多聞櫓(塁上に設けた細長い単層櫓)と塀によって接続する。これを連立式形態といっている。東西四十間余(約73メートル)、南北三五間(約64メートル)の凸字型の平面をなしている。地形の変化に対応して築かれた山城は、自然に不規則な縄張りとなる。しかし、この本丸は平城城郭のような整然さを有するので築城技術の完成したころの構築とみなされる。
※本丸説明板より

【感想】
こんな山の中に巨大な城郭があることに驚かされる。各所を見て回ったが門は殆ど枡形が構築され至る箇所に石垣がある。大手門をくぐってからは大規模な石垣があり枡形も折れが幾重にも連なり本丸へ。
三ノ丸、二ノ丸、本丸には櫓があったであろうと思われる場所があるが説明するものがなく、折角の二ノ丸や本丸にある説明板が示す場所が良くわからないのは残念であった。ネットで調べて何とか分かりますが…

スタンプ
設置場所
たかとり観光案内所「夢創舘」
登城日 2011年3月12日(土)
LINK 高取町観光ボランティアガイドの会HP
高取城-Wikipedia
城主家紋 【遠雁に竜胆】
(清和源氏頼親流)
越智家家紋

【梅鉢】
(藤原姓か?)
筒井家家紋

【丸に一文字割桔梗】
(清和源氏土岐氏流)
植村家家紋

                      

  
探訪

※城下町の看板より

※高取町観光ボランティアガイドHP内高取城址郭図より(加筆あり)
【黒門跡】
ここが大手筋の登城口になります。大手道一番目の門。
【宗泉寺との分岐点】
直進が高取城、右に折れると宗泉寺。
【登城道】
登城道から石垣があります。
【木橋】 【高取城址碑】 【高取城址碑】
【七曲り】
曲がりくねった坂道を登っていきます。
【木橋】
左側は谷になっています。
【一升坂】
長い坂道が続きます。
【猿岩】
高取城二ノ門外に所在し城下町に下る大手筋と明日香村栢森へ下る道筋の分岐点に位置する。飛鳥時代の製作と考えられる。
【石塔】
猿岩の反対側にある。
【二ノ門跡】
この二ノ門からが当時の城域となる。
【水堀】
二ノ門手前左に曲がると山城では非常に珍しい水堀を見ることが出来る。
【水堀】 【土橋】
二ノ門へ繋がる土橋。水堀側より撮影。
【侍屋敷へ続く虎口】 【侍屋敷の石垣】
こういった石垣がいたるところに見られる。
【侍屋敷の石垣】
【国見櫓石垣】 【国見櫓跡】 【国見櫓跡からの眺望】
矢場門跡】 【矢場門から松ノ門へ向かう登城道】
この道の両脇にも侍屋敷があった。

【松ノ門】
この門は移築復元されている。城下町の方に載せています。
【松ノ門から見た宇陀門方向】
手前の石垣の上に到着櫓があった。
【宇陀門跡】 【千早門跡】
【三ノ丸-城代屋敷の虎口】
藪で入れません。
【三ノ丸から見た大手門石垣】
この場所より右手方向に壺坂口からの登城道があります。
【大手門跡】
【大手門内枡形】
この右手の石垣上に竹櫓があった。竹櫓とは、攻めてきた敵の足を滑らせる竹を保管していたと伝承されています。
【十三間多門跡】 【十三間多門跡・二ノ丸側より】
【二ノ丸】 【客人櫓跡】 【二ノ丸石垣】
【櫓台石垣】
この上に太鼓櫓、新櫓があった。
【喰違い虎口】 【十五間多門跡】
【太鼓櫓跡】 【新櫓跡】 【搦手方向】
新櫓跡から見下ろした搦手方向(七つ井戸)。
【本丸石垣】
手前は下ノ門になる。左側の石垣は石人夫櫓跡になる。
【十五間多門石垣】
武者走りも見える。
【十五間多門内】
石人夫櫓跡から撮影。
【天守台】
定番の構図。
【上ノ門跡】 【本丸下の曲輪の石垣】
【十方櫓跡】 【十方櫓の虎口】 【本丸下の曲輪の石垣】
十方櫓横の虎口より撮影。
【本丸西側石垣】 【本丸南西角石垣】 【本丸南側石垣】
【本丸石垣南東側石垣】 【辰巳櫓跡】 【櫓跡】
名前が不明。
【本丸北東角石垣】
この上が鉛櫓となる。二ノ丸の説明板にあった「補助的に設けられた付台」があるのでこの石垣下に『胴木』が配列されているのであろう。
【本丸への入るスロープ】 【本丸枡形虎口入口】
【本丸枡形虎口内】 【本丸枡形虎口右側通路】
この先は具足櫓、天守閣方向。
【本丸枡形虎口左側通路】
この先は、本丸内部。突き当たりが鉛櫓跡になる。
【本丸枡形虎口】 【本丸】 【本丸南側】
【小天守跡】 【天守台】 【天守台と井戸】
【天守穴蔵入口】 【天守跡】 【本丸】
具足櫓跡から見た本丸枡形虎口と本丸。
【本丸枡形虎口】
具足櫓跡より撮影。
【上ノ門跡】
天守台上より見た上ノ門跡。
【二ノ丸方向眺望】
【搦手門跡】 【搦手道】 【七つ井戸】
【搦手道】 【七つ井戸】 【搦手口】
城下町
【植村邸家老屋敷長屋門】 【植村邸家老屋敷長屋門】 【長屋門】
【復元松ノ門】
明治25年に土佐小学校の校門として移築されたが、昭和19年の火災により一部消失。その後一部を復元(屋根部なし)。門扉は新材と思われる。
【復元松ノ門】 【臼井家(伊勢屋)屋敷跡地説明板】
【伊勢屋屋敷跡碑】 【池田邸屋敷跡碑】 【移築下屋敷門】
現在は石川医院の表門となっている。石川医院は高取藩代々の御殿医として仕えたそうです。
町屋のひなめぐり



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