powered by 地図Z
※地図上のマーク、線はおおよその位置を示したものです。
城名 勝山城
住所 〒739-0534
広島県廿日市市宮島町
入場時間
入場料 無料
指定文化財 厳島として
国の特別史跡
特別名勝
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 大内義興
築城年 大永4年(1524)
主な改修者
主な城主 大内氏、陶氏
位置 北緯34度17分39秒
東経132度19分5秒
地図 城址碑
【沿革】
勝山城は大永4(1524)年、大内義興が宮島に渡航して「勝山の館」を構えたところです。

天文20年(1551年)8月末大内義隆は、宿老の陶晴賢の謀反により長門大寧寺で自刃してしまいました。

義隆と盟友関係にあった毛利元就は、晴賢に兵を向けましたが、兵力は陶軍がはるかに優勢でした。
弘治元年(1555)策を謀り、宮島の北に位置する宮ノ尾に城を築き陶軍を宮島に誘き寄せました。陶軍は、2万の兵を宮島に上陸させ、まず勝山城(多宝塔付近)に本陣を置き、続いて宮ノ尾城が良く見える塔の岡(五重塔が建つ付近)に置いて攻めたてましたが、守りが堅くなかなか落とすことができませんでした。元就は、10月1日おりからの暴風と暗闇にまぎれて対岸の地御前から3千5百の兵を引き連れて密かに包ヶ浦に上陸し、塔の岡の背後の尾根である博打尾に登り、一気に陶の本陣めがけて攻め下りました。
陶軍は、混乱し戦うすべもなく敗走しました。陶軍の勇将弘中隆包は、絵馬ヶ岳(駒ヶ林)に敗走して自刃し、晴賢はわずかな手勢を引き連れ大江の浦に落ち延びましたが、自刃し果ててしまいました。この戦いを「厳島合戦」といい「日本三奇襲戦」の一つといわれています。


【感想】
遺構は皆無である。ただそこに城址碑があることでこの地が大内氏の館があったことを物語っている。
多宝堂までの道は趣があってよかったです。

登城日 2011年5月5日(木)
LINK 宮島観光協会HP
城主家紋 【大内花菱(唐菱)】
(渡来系多々良氏流)
大内家/陶家家紋

                      

探訪
【登城口】 【多宝堂】(重要文化財) 【勝山城址碑】
【城域】 【城域】
上に登る道があるが上には何もなかった。




Back



inserted by FC2 system