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※地図と写真で位置にずれがあります。赤線は大体の位置になります。
城名 郡山城(別名:吉田郡山城))
住所 〒731-0501
広島県安芸高田市吉田町吉田
入場時間 安芸高田市歴史民俗博物館
午前9時〜午後5時
休館日:月曜日(祝休日の場合は開館)
    祝休日の翌日(土日の場合は開館)
    12月29日〜1月3日
入場料 大人300円、小中学生150円
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 山城
天守構造 不明
築城主 毛利時親
築城年 建武3年(1336)
主な改修者 毛利元就、毛利輝元
主な城主 毛利氏
位置 北緯34度40分27.43秒
東経132度42分34.52秒
地図 本丸跡
羽子の丸
尾崎丸
旧本城
毛利元就墓所
100名城
スタンプ
【概要】
郡山城は、南北朝時代の建武3年(1336)毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、更に輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260年間の居城であった。
郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は約1km四方に広がる。
遺構は、山頂に本丸、周囲に二ノ丸、三ノ丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小約270の曲輪が配され、とことどころに石塁の跡が見られる。
天文9年(1540)9月、尼子晴久が3万の大軍を率いて来攻したが、毛利軍は小勢ながらよく戦い、翌年1月尼子軍を敗退させた。
その後、毛利氏は、この城を本拠として、中四国、北九州まで勢力をのばした。天正19年(1591)輝元の広島城移城後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められた。
郡山城は、中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡である。


【感想】
毛利元就の本拠地である郡山城、輝元が広島城に移城したのが分かるほど、現在でも交通の便はよくありません。しかし、山自体が毛利の歴史そのものであり、元就の墓、隆元の墓へお参りしてから整備された搦手より登城できるのは良かった。曲輪の数も多く、壇の先まで行くと本当に広い城域だったということが分かる。
旧本城は、こじんまりとしているが本丸、二ノ丸、三ノ丸もしっかり残っていて良かったです。

スタンプ
設置場所
安芸高田市歴史民俗博物館
登城日 2011年5月6日(金)
LINK 安芸高田市歴史民俗博物館HP
郡山城-Wikipedia
城主家紋 【一文字三つ星】
(大江氏流)
毛利家家紋

                      

  
探訪
【安芸高田市歴史民俗博物館】 【郡山城模型】 【郡山城全景】
【伝御郷屋敷跡】
現在は、安芸高田少年の家になっている。
【毛利元就像】 【郡山城址碑】
【伝元就火葬場跡】 【酉谷地点石垣跡】
郡山城の酉谷に造られた郭群の一角にあたり、豪雨によって崩落したことに伴う復旧工事のため、発掘調査が行われた際に確認された。
【毛利隆元墓所】
元就の長男の墓。
【常栄寺跡】
隆元の菩提寺跡。
【薬研堀跡】
大通院谷遺跡にある。
【青光井山尼子陣所跡】
正面の左が青山、右が光井山で総称して青光井山と呼んでいる。この山上に尼子詮久(晴久)が率いた3万の大軍が陣取った。真中の谷が古戦場跡になる。
【毛利元就の墓所入口】 【洞春寺跡】
元就の三回忌に、孫輝元が天正元年(1573)に建立した臨済宗の菩提寺です。
【毛利元就墓所全体】
【毛利元就墓所】 【百万一心の碑】
郡山城築城の際、人柱の代りに一日一力一心の大石を鎮めとしたという伝説がある。これは模彫の碑である。
【毛利一族墓所】
【郡山城跡登山口】 【堀切跡】 【嘯岳禅師の墓】
元就が逝去の際葬儀の導師をつとめ、元就の菩提寺洞春寺の開山にもなった。
【御蔵屋敷跡】
面積600uの広い敷地の、兵糧蔵跡。
【三ノ丸石垣】
三ノ丸南東と御蔵屋敷下段に続く帯郭との間に築かれた石垣。城内の石垣は江戸時代に殆ど崩されたが、この部分では当初の石積みをわずかに留めている。帯郭から三ノ丸への通路は高さ約4mの石垣を斜めに登る階段状となっており虎口郭的な三ノ丸西ノ段への入口とみられる。
【三ノ丸虎口】
【三ノ丸虎口】
石垣の下部が残る。
【二ノ丸虎口】 【三ノ丸の一つの段】
城内最大の曲輪(1400u)で、ここは土塁や削り出しなどで四段に分かれている。
【三ノ丸の一つの段】 【三ノ丸の土塁跡】 【二ノ丸跡】
【二ノ丸跡】
本丸から撮影。
【本丸虎口】 【本丸跡】
【本丸跡】
櫓台から撮影。
【櫓台跡】
長さ23m、幅10mの広さで現状は破損が著しい。
【櫓台跡】
【本丸碑】
櫓台上にある。
【二ノ丸虎口】 【三ノ丸から見た本丸】
【三ノ丸跡】 【厩の壇跡】
三ノ丸の東から東南方にのびる約400uの尾根の基部で、壇の下に馬場があった。
【厩の壇下】
【釜屋の壇跡】
本丸から15m下がった北側に位置し、炊事場に当たる所。ここから北側に続く狭い段経て羽子の丸に至ります。
【釜屋の壇下】 【釜屋の壇】
下から上を見た壇。
【羽子の丸堀切】
幅7m、深さ3mの堀切。
【羽子の丸】
先端頂部の曲輪から南へは11mから5mの比高差をもって三段、、東へは1mから3mの比高差をもって三段があり、それらを帯曲輪でつなぎ、さらに付曲輪を加えるなど、堅固な造りを構えている。特に頂部の曲輪は面積650uもあり、これだけでも城として独立しうる機能をもっていたと考えられる。
【羽子の丸の壇】
【姫の丸壇】
本丸の北にのびる峰にあり、基部の段は通路で、西は釣井の壇、東は釜屋の壇へ繋がる。この壇に基礎を置いた本丸の石垣中に、元就築城のとき「百万一心」の礎石を埋めたという伝説がある。
【姫の丸壇下】 【釣井の壇】
長さ75m、幅15m、面積約1000uの長大な曲輪である。直径25mの石組井戸があり、本丸に最も近い水源である。
【石組井戸】
釣井の壇にあるこの井戸は現在は埋められて深さ4mになって水は湧いていない。
【勢溜の壇】
御蔵屋敷の下段を、堀切で区画して独立させた。大小10段からなる大型曲輪です。
【勢溜の壇下】
【勢溜の壇の先端】
先端に見晴らし台がある。
【満願寺跡】
毛利氏の郡山入城以前からあった寺。
【妙寿寺曲輪群】
妙寿寺曲輪群は、長さ41m、幅24m、面積約1000uで、周囲を石垣や石塁で画した方形の曲輪を中心に、それから東西にのびる幅10mから15mの帯曲輪状の曲輪、およびそれらに伴う小曲輪群からなる。
【尾崎丸堀切】 【尾崎丸堀切】 【尾崎曲輪】
【旧本城】 【旧本城本丸跡】
毛利時親が安芸吉田荘移って以降、元就が郡山全山を城郭とするまでの毛利氏の本城であった。
【旧本城本丸土塁】
【旧本城本丸からの眺望】 【旧本城二ノ丸】 【旧本城二ノ丸・三ノ丸】
【展望台】
ここより旧本城の方が見晴らしは良い。
【?】 【郡山公園】
興禅寺跡に築かれた。
【清神社本殿】 【三矢の訓跡碑】



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