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※地図と写真で位置にずれがあります。赤線は大体の位置になります。
城名 小谷城
住所 〒529-0312
滋賀県長浜市小谷郡上町
入場時間 小谷城戦国歴史資料館
午前9時30分〜午後5時
(入館受付は午後4時30分まで)
入場料 一般:300円、小・中学生:150円
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 梯郭式山城
天守構造 二層天守(推定)
築城主 浅井亮政
築城年 永正13年(1516)
主な改修者
主な城主 浅井氏、羽柴秀吉
位置 北緯35度27分33.693秒
東経136度16分37.46秒
地図 本丸跡
赤尾屋敷跡(長政自刃の地)
京極丸跡
小丸跡
山王丸跡
100名城
スタンプ
【概要】
小谷城は戦国乱世の大永4年(1524)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573)までの50年間浅井氏が根城としたところであり、六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。
また、この城は信長の妹お市の方の住した所でありその子、茶々(後の淀君)・初(京極高次夫人)・江(徳川秀忠夫人)の三姉妹の誕生地でもある。

小谷城は、北国街道、中山道、北国脇往還の交通の要衝にあり湖上交通を利用すればはるか湖南・湖西・京都へと通ずる地の利を占める上に湖北三郡を一望に治め得る要所である。城は典型的な山城であり、下より尾根上に出丸、金吾丸、番所、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、黒金御門、大広間、本丸、中丸、刀洗池、京極丸、小丸と続き海抜395mの山王丸を頂きとする。山腹には赤尾屋敷、大野木屋敷を始め、削平地、竪堀など遺構は全山を埋めている更に主峰大獄六坊を始め要所には遺構が散在し清水谷には根小屋跡があって武将たちの屋敷跡が歴然としており、これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。落城後羽柴秀吉によって城郭、城下町、寺院などが今浜(現長浜)に移され今は空しく松籍のみが昔の悲劇を物語っている。
(小谷城説明板より一部改訂)

【感想】
ようやく小谷城に来れました。
流石に天下の堅城、山登りも結構つらい。尾根上に築かれた各曲輪は破城されたとはいえいたるところに石垣があったりして見どころは多い。

ただ大河ドラマをやったおかげで見学者は多いのだろうがバスが運行しているときには一般車は入れず、下から歩くことになる。またこのバス運行している車道には人の立入禁止などと書かれている。一体何なんだ。人は上りも下りも登城道を進めということだろうか。そのくせ大手道は立入禁止になっている。観光客集めもいいが、町自体でこういったことはやめてもらいたいもので、興ざめもいいところである。
まぁ、帰り道は無視してその舗装道を歩いて下りてきましたけど。


スタンプ
設置場所
小谷城戦国歴史資料館受付
登城日 一回目:2013年5月3日(金)
二回目:2016年12月24日(土)
LINK 小谷城戦国歴史資料館HP
小谷城-Wikipedia
城主家紋 【三つ盛亀甲】
(藤原氏の子孫か?)
浅井氏家紋

                      

  
探訪

※小谷戦国歴史資料館の案内板より(加筆あり)
【JR河毛駅前の浅井長政とお市像】 【小谷城全景】
左の建物は、戦国ガイドステーション三代の里。
【小谷寺】
浅井三代の祈祷寺。
【大河ドラマ「お江」放映記念碑】
戦国ガイドステーション三代の里自体が大河ドラマ「お江」のおかげで作られた場所であり、ここから3/24〜5/31、7/21〜12/2には毎日、6/1〜7/20は土日祝に小谷城バスが発着する。ここから番所跡までバスで行けます。
【小谷城址碑】
草木に隠れて登城口の脇にあります。うっかり見過ごす場所です。
【大手道入口】
小谷城が松茸の生える場所なのでここからの登城は禁止のようです。登ってる人もいますが、入らずに車道から途中の設置された階段から登りましょう。
【出丸登城口】
反対側(登城口側の設置された階段側)から登ると出丸かどうか心配になります。写真は金吾丸側。
【出丸跡】
主郭尾根の最先端に位置するこの場所は独立の砦になっている。上下二段の曲輪と土塁からなる。
【大手道】
【間柄(真柄)峠】
出丸跡と金吾丸の間にある。ここにある説明板と小谷城戦国歴史資料館でもらえるパンフレットとでは微妙に出てくる人物の名前が異なっている。
大永5年(1525)7月、江南の六角高頼(看板では息子の定頼となっている)が浅井亮政を討つべく小谷城に侵攻した際、越前より朝倉氏の軍奉行朝倉教景(宗滴)に従っていた真柄備中守が守った所で、その名をとって真柄峠と呼ぶようになった。しかしこの看板ではここは古くから「間柄峠」として伝わると書かれている。
【金吾丸入口】 【金吾丸跡】
間柄峠と同じように、ここに朝倉金吾教景(宗滴)が布陣したと云われ、教景の名乗りをとって「金吾丸」と名付けられたと伝えられる。四段の曲輪と土塁からなる。
【金吾丸入口(番所跡側)】
この近くに小谷城バスが停車する。
【番所跡】
金吾丸の裏にあり、ここからが小谷城主郭への入口となる。
【登城道】
【登城道からの景色】
虎御前山の向こうに琵琶湖と竹生島が見える。
【御茶屋跡】
番所跡のすぐ上にある曲輪で、曲輪は一段であるが比較的広く、曲輪の真ん中は前後を分ける低い土塁がある。その土塁内側には小規模な御殿があったと思われる。また西側(奥)には庭が存在したと思われる。
【御茶屋敷の土塁】
赤線手前の部分が、仕切るための低い土塁。
【御茶屋西側の石材】
この辺りに散らばる石は庭石だったのかもしれない。
【御馬屋跡】 【馬洗池】
【首居石】
黒金門跡の手前にある。天文2年(1533)1月京極氏の有力被官であった今井秀信を神照寺で殺害し、首をここにさらした伝えられる。
【赤尾屋敷入口表示】 【赤尾屋敷跡】
浅井家重臣赤尾氏の屋敷跡とされる。天正元年9月1日最後の攻撃の為、黒金門から打って出た長政は信長の兵に攻められ鐘ヶ丸(本丸)に戻ることができず、やむなくこの屋敷で自刃した。このとき長政29歳であった。
【浅井長政自刃の地碑】
赤尾屋敷跡の中央にある。とても感慨深い場所である。
【桜馬場・上段】 【桜馬場・下段】
【浅井氏及び家臣供養碑】
黒金門手前左側、桜馬場にある。小谷城の戦いの戦没者を供養している。
【桜馬場からの景色】 【黒金門跡】
小谷城の最大の門で防御の要だったと思われる。両脇に巨石群がある。
【大広間跡】 【大広間跡】
この正面に鐘ヶ丸(本丸)の石垣を見ることができる。
【大広間の井戸跡】
【鐘ヶ丸(本丸)石垣】
石垣の前に立つ本丸の説明板には、彦根城西ノ丸の三重櫓は元小谷城天守と伝えると書かれているが、本当かどうかというと嘘くさいです。
【鐘ヶ丸(本丸)入口のスロープ】 【鐘ヶ丸(本丸)跡】
上下二段の曲輪で本丸にある説明板には、何層かの天守があったと書かれており、石垣前の説明板の説明と矛盾がある。
【本丸脇の通路】 【御局屋敷跡】
本丸下の帯曲輪の北端にある曲輪。この帯曲輪は御馬屋敷跡まで続く。
【本丸の登り石垣か?】
【大堀切】
番所跡から本丸跡までとそれより上の曲輪を区切るための堀切。
【大堀切より見た本丸】 【中丸・下段】
南北三段からなる曲輪で石垣が所々に現存する。基本的には石垣で固められていたと見られる。虎口を中央に設置しているのは中丸より上部の曲輪だけで、ここより下は防衛面も考慮してすぐ突き抜けられないように側面から入る構造になっている。
【中丸・中段虎口】
この部分には石垣が見られる。
【中丸・中段】 【中丸・上段】
【中丸・上段にある刀洗池】
刀洗池の縁を通って京極丸へ入る。ここは側面から入ることになる。
【京極曲輪虎口】 【京極丸跡】
京極氏の屋敷があったと伝えられている。大広間に次ぐ広大な曲輪である。天正元年(1573)8月27日夜半羽柴秀吉によって攻め落とされ、久政の守る小丸と長政の籠る本丸との間を分断された。
【京極曲輪跡】 【京極曲輪の土塁】 【京極曲輪・三段目の曲輪】
【京極曲輪・枡形虎口】
秀吉勢は水ノ手よりこの枡形虎口を通って京極丸へと攻め入ったとされる。
【京極曲輪・枡形虎口】 【小丸跡】
2代目城主久政が引退した後に居住したところと考えられる。天正元年(1573)8月27日に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴松太夫の介錯により自刃。享年49歳。
【小丸跡】 【山王丸へ入るスロープ】 【山王丸石垣】
【山王丸・東側の大石垣】
小谷城で最も壮大な石垣である。比較的大きな石を用いた石垣で高さ約5mを測り、その規模は、本丸を上回る。現在は崩壊しているが、東面に残る石垣に往時の姿を偲ぶことが出来る。
【山王丸・東側の大石垣 【山王丸虎口】
【山王丸跡】
山王丸は四段からなり中央の曲輪には山王権現(現小谷神社)が祀られていた。小谷城の詰めの丸と考えられる。小谷城跡絵図には山王丸から清水谷に向けて搦手道が描かれている
【山王丸最上段の石垣】 【模擬大手門】
小谷城戦国歴史資料館前に設置された門
【追手道】
小谷城戦国歴史資料館側からの登城道、こちらは追手道となっている。小谷城の大手が二つあるがこちらが正式な大手道と思われる。ここから登ると出丸の北側で合流となる。
【磯野屋敷跡】 【追手道】
急こう配の道が続き、出丸の北側で大手道と接続する。



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