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※地図上のマーク、線はおおよその位置を示したものです。
城名 大津城
住所 〒520-0047
滋賀県大津市浜大津5丁目
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 平城(水城)
天守構造 ※彦根城に移築現存
築城主 浅野長政
築城年 天正14年(1586)
主な改修者
主な城主 浅野長政、増田長盛、新庄直頼、京極高次、戸田一西
位置 北緯35度0分43.4秒
東経135度51分51.3秒
地図 城址碑
三ノ丸外堀石垣
本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
【沿革】
天正14年(1586)、豊臣秀吉は坂本城を廃城とし、琵琶湖の水運を利用して物資を運ぶ船舶を監視するために浅野長政に命じて大津城を建てた。
その後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、文禄4年(1595)に京極高次が城主となり6万石を与えられた。

慶長5年(1600)京極高次は、豊臣方の恩顧の大名であり、妻のお初は、秀吉の側室「淀殿」の妹であり、高次の妹竜子(姉とも言われます)「松の丸」も秀吉の側室でありました。一方、妻お初の妹は、徳川家康の次男、二代将軍徳川秀忠の妻となっていましたので、西軍につくのか、東軍につくのか苦しい立場でありました。

ただ、高次は、すでに家康から、大津城の修繕費として白銀三十貫文を受けるなどすでに深い関係でした。高次は、とりあえず西軍に応じて、加賀の前田征伐に従いましたが、兵千人を大津城に残して、二千の兵を率いて出発しましたが、一向に進まず、20日目でやっと余呉に着きました。
この動きに西軍が疑問を持ち出すと、急転し、海津から船で、9月3日に大津城へ帰還しました。この時、高次は籠城を決心していたと考えられます。

大津籠城は慶長5年(1600)9月4日から始まり、家臣の妻子をよんで兵糧米の確保や、塩や味噌、醤油も城内の蔵に入れ、防御を堅固にするため城のまわりを14時間もかけて焼き払いました。
この籠城に対して、西軍は毛利元康を大将とし立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢一万五千の大軍は大津城を包囲し、大津城を見下ろせる長等山の山腹に陣をはりました。

西軍の総攻撃は9月6日からはじまり、城外の前線陣地は全滅となりましたが、城内の守りは堅く、一進一退の攻防が続きました。そこで西軍は、長等山に大砲を据えて、城内に向かって砲撃を開始いたしました。この攻撃ぶりを京の町衆も手弁当をもって見物にきていたといわれています。
城内はこの攻撃にも開門の様子なく、6日目を迎えましたが、西軍の外堀を埋める戦略により、より激しい攻撃が行われ、9月14日、秀吉と親しかった高野山の僧、木喰応其(もくじきおうご)と新庄直忠が本丸に入り、和睦開城を申し入れを受け入れ開城となりました。開城後、京極高次は一命を助けられ高野山にて出家することとなった。

翌日15日には関ケ原の合戦が行われましたが、大津城を攻撃した諸将はこの戦に間に合うことができず西軍は敗退。大津城にて立花宗茂らを引き付けておいたを大いに賞賛した徳川家康は、京極高次を大名に復帰させ若狭一国九万二千石を与えた。

その後大津城は廃城となり、膳所城を建てることになる。


【感想】
浜大津駅に着き外に出るが、なかなか城址碑が見つからなかった。駅自体が本丸なので駅のすぐ近くと思っていたら旅客ターミナル側に有りました。ほんとに何もありません。
唯一現存しているのが、三ノ丸外堀の石垣という情報を得て、大津祭曳山展示館。この駐車場に石垣があるということで見に行ってみると確かに段差があり石垣はありますが、ほとんどの部分が民家となっているので見られるのはほんの一部。しかも説明するものもないのは残念でした。


登城日 2013年5月4日(火)
LINK びわ湖大津よりどり観光ガイド
大津城-Wikipedia
城主家紋 【丸に違い鷹の羽】
(清和源氏土岐氏流)
浅野氏家紋
【四つ目結】
(宇多源氏佐々木氏流)
京極氏家紋

                      

探訪

※大津城址碑下の「大津城縄張推定復元図」より(石垣跡を加筆)
この地図に位置を落とし込むと外堀の中になってしまうのですが…
【大津城址碑】 【大津城跡】
浜大津駅付近も本丸跡になり、その奥京阪ビルより先が二ノ丸跡となる。
【三ノ丸外堀石垣跡】
大津祭曳山展示館左側の駐車場奥で見ることができる。上の「大津城縄張推定復元図」では、堀の真ん中になってしまうがこの向きであれば外堀の城外側と思われる。




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