powered by 地図Z ※地図上のマーク、線はおおよその位置を示したものです。 |
城名 | 坂本城 | ||
住所 | 〒520-0105 滋賀県大津市下阪本三丁目 |
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入場時間 | - | |||
入場料 | - | |||
指定文化財 | - | |||
城郭構造 | 平城(水城) | |||
天守構造 | 不明(天守と小天守が推定される) | |||
築城主 | 明智光秀 | |||
築城年 | 元亀2年(1571) | |||
主な改修者 | 丹羽長秀、浅野長政 | |||
主な城主 | 明智光秀、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政 | |||
位置 | 北緯35度3分35.374秒 東経135度52分37.744秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 二ノ丸跡・城址碑 | |||
3 | 内堀跡 | |||
4 | 三ノ丸跡 | |||
5 | 坂本城址公園・明智光秀像 | |||
【沿革】 織田信長配下の明智光秀は、比叡山・山門焼き討ちの直後の元亀2年(1571)、下阪本の湖岸に大天守と小天守をもつ水城を築きました。当時来日していた宣教師ルイス・フロイスはこの坂本城を後に築城される天下の名城安土城に次いで豪壮華麗な城と述べています。 坂本城築城の目的には、山門の監視ばかりではなく、近江の反信長勢力、特に浅井・朝倉軍に対する前線基地や、彦根の佐和山城とともに信長の領国美濃と京都との往還の確保などがあげられます。 この城は天正10年(1582)6月の山崎の合戦の後に焼失しますが、丹羽長秀によって再建され、同14年頃、城が大津(大津城)に移るまでこの地にありました。 昭和54年(1976)に実施された発掘調査では焼土中から城の施設の一部とみられる建物の基礎や石組みの井戸,池,溝,石垣の礎石などが検出されています。 ※二ノ丸跡城址碑の説明板による 【感想】 坂本城は廃城後、跡形もなく遺構は殆どない。 本丸跡は、社有地になっており入ることはできないため、見られるのは二ノ丸跡の城址碑と坂本城跡公園になる。 坂本城址公園には明智光秀像があったりするが、本丸跡ではないため複雑な心境になる。社有地と公園を入れ替えられれば一番いいのですが… また、坂本城跡公園へ行くために横断しなければならない国道161号線は交通量が多く、信号機がないのでわたる際は注意が必要。 |
登城日 | 2013年5月4日(火) | ||
LINK | 滋賀県観光情報 | |||
坂本城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【桔 梗】 (清和源氏土岐氏流) 明智氏家紋 |
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【直違い】 (武蔵七党児玉党) 丹羽氏家紋 |
※坂本城説明板より縄張り復元図 |
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【三ノ丸跡】 | 【酒井神社】 三ノ丸跡に建つ。 |
【両社神社】 三ノ丸跡に建つ。酒井神社と向い合って建っている。 |
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【中堀跡】 天正14,5年(1586,7)頃、坂本城が廃されて大津へ移転。その跡地の堀を埋めて北国へ通じる大道を作ったことからきた町名と伝えられる。 |
【二ノ丸跡に建つ城址碑】 | 【坂本城跡公園入口の城址碑】 坂本城跡公園は本丸ではなく、日吉山王祭で湖上へ御輿を船積みする七本柳という舟入跡です、国道161号線建設で後から作られた船止めで公園北の東南寺川(城址碑の裏の川)が外堀と言われている。 |
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【坂本城跡公園内の明智光秀像】 この不格好な像、何とかならなかったのでしょうか。 |
【坂本城跡公園内にある石垣】 ここは本丸後ではないので後世に築かれた護岸用の石垣のようである。 |
【湖中に残る石垣と胴木】 説明板に記載されている写真、本丸跡の石垣のようで琵琶湖の渇水期になると姿を現すようです。 |
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【坂本城の移築城門】 説明板に記載されている写真、聖衆來迎寺の表門。 |
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