powered by 地図Z ※地図上のマーク、線はおおよその位置を示したものです。 |
城名 | 亀山(別名:亀宝城、亀岡城、霞城) | ||
住所 | 〒621-0851 京都府亀岡市荒塚町(宗教法人大本内) |
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入場時間 | - | |||
入場料 | - | |||
指定文化財 | - | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | 複合式層塔型5重5階(非現存) | |||
築城主 | 明智光秀 | |||
築城年 | 天正5年(1577)頃 | |||
主な改修者 | 岡部長盛 | |||
主な城主 | 明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部氏 | |||
位置 | 北緯35度0分48.82秒 東経135度34分52.32秒 |
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地図 | 1 | 南郷堀(外堀) | ||
2 | 城址碑 | |||
3 | 保津門跡 | |||
4 | 万祥池(内堀) | |||
5 | 本丸石垣 | |||
【沿革】 織田信長公の命を受けた明智光秀公が、丹波攻略の拠点として天正5年頃築城しました。保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれましたが、正確な史料が残っていないため全容は分かっていません。光秀は近隣の村から人を呼び寄せ、城下町を形成しました。天正8年(1580)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2年後に「本能寺の変」が起こります。 「本能寺の変」後、豊臣時代には、その重要性から羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、城内や城下町の整備がなされ、ついで江戸時代に入り、慶長15年(1610)岡部長盛の代に幕府が西国大名に命じ、「天下普請」により近世城郭として大改修がなされた。この築城にあたっては城づくりの名手・藤堂高虎が縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。 明治維新以降廃城処分となり、所有者が転々とします。紆余曲折の末、荒れ果てた城跡を宗教法人大本が入手し現在に至ります。石垣は大本によって修復されており、総合受付(みろく会館)で見学を申し込むと万祥伝にてお払いを受けた後、内堀跡や本丸付近の石垣を見学することが可能です。 【亀山城の堀】 亀山城の南側は、内堀、外堀、惣堀の三重の堀と御土居がめぐり、堅牢な構えを呈しています。一方北側の搦手は、外堀が一重にめぐらされているだけとなっています。これは、有事の際にには、保津川の流れを塞き止めると、北側の水田は一気に大きな堀となるように考案されているためです。 【感想】 亀山城の見学が宗教法人大本にて受付することにより、見ることが出来るのはうれしい限りです。 正門をくぐるとその中は外とは別世界のように厳かな空間になっています。緊張しながら受付をし、お払いを受け、いよいよ内堀や本丸石垣を見ることが出来ます。見学者も場所が場所なだけにほとんどいないのでゆったりと見ることが出来、良かったです。 |
登城日 | 2013年9月4日(水) | ||
LINK | 亀岡市観光協会~亀山城 | |||
丹波亀山城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【桔 梗】 (清和源氏土岐氏流) 明智氏家紋 |
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【左三つ巴】 (藤原南家工藤氏流) 岡部氏家紋 |
【南郷公園】 | 【南郷池(雑水川)】 ここが亀山城の北側の外堀になる。 |
【城址碑】 「明智光秀公築城亀山城趾」と彫られている。 |
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【保津門跡】 亀山城北方面の出入口となる門。 |
【石垣】 保津門後から南へ進むと見えてくる石垣。これが亀山城のもかは不明。 |
【宗教法人大本正門】 ここからは宗教法人大本の敷地となる。 |
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【万祥池(亀山城内堀)】 受付のみろく会館からお払いを受ける万祥殿の間ある。 |
【本丸入口】 万祥殿にてお払い後、一つ目の門をくぐると二つ目の門が見えてきます。門の脇には石垣があります。 |
【本丸石垣 | |
【本丸石垣】 | 【聖域】 ここより先は聖域となっており上に入ることはできない。 |
【井戸跡】 | |
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【石垣】 | - | - |