powered by 地図Z ※地図上のマーク、線はおおよその位置を示したものです。 |
城名 | 淀城(別名:てん城、新淀城) | ||
住所 | 〒613-0903 京都府京都市伏見区淀本町(淀城跡公園内) |
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入場時間 | - | |||
入場料 | - | |||
指定文化財 | - | |||
城郭構造 | 梯郭式平城 | |||
天守構造 | 連立式望楼型5重5階地下1階(1623年築) (非現存) |
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築城主 | 松平定綱 | |||
築城年 | 元和9年(1623) | |||
主な改修者 | 永井尚政 | |||
主な城主 | 久松松平氏、石川氏、稲葉氏 | |||
位置 | 北緯34度54分18.17秒 東経135度43分3.73秒 |
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地図 | 1 | 天守台 | ||
2 | 稲葉神社 | |||
3 | 櫓跡 | |||
4 | 櫓台 | |||
5 | 城址碑 | |||
【沿革】 徳川二代将軍秀忠は、元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工した。翌寛永3年(1626)、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。 寛永10年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保8年(1723)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの数百年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。 江戸時代の淀城は、周囲に二重三重の濠をめぐらし『淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると』歌で名高い水車は直径8mもあり城の西南と北の2ヶ所に取り付けられていた。 淀城とその城下町の盛観は延享5年(1748)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「挑戦聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。 昭和62年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石像が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜5層の天主閣の地下室と基礎であり、宝暦6年(1756)雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。 なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約500mの納所にあったと推定されている。 ※公園内「淀城の由来」より 【感想】 以前は京阪本線「淀駅」から石垣を見ることが出来たらしいが、駅もすっかり新しくなり駅のホームからはすでに見ることが出来ない。天守台石垣のそばには駐輪場が作られ間近に石垣を見ることはできるが、その間の堀は流れもなくただただ淀んでいるだけ。 いろいろ復元に関して計画はあるようだがいつになることか・・・ |
登城日 | 2013年9月7日(土) | ||
LINK | 淀城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【梅 鉢】 (菅原道真後裔) 久松氏家紋 |
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【折敷に三文字】 (伊予河野氏の一族) 稲葉氏家紋 |
※説明板より |
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【本丸跡から見た天守台】 | 【淀城故址跡・淀小橋旧趾・唐人雁木旧趾】 いずれも現在地との関係はない。なぜここに3つ並んでいるのか疑問ですが置かれています。 |
【天守台】 | |
【虎口】 | 【天守入口】 柵があり中には入れない。 |
【天守台内部】 柵上から撮影。 |
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【天守虎口】 上からは下りれるが下からは柵があり入れない。 |
【天守台】 | 【天守台と堀】 | |
【本丸内の稲葉神社】 | 【城址碑】 | 【櫓台跡】 | |
【櫓台】 | 【堀】 | 【天守台】 対岸の競馬場の駐車場内より撮影。 |
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【天守台】 自転車置き場内より撮影。 |
【堀と天守台】 こちらの堀は殆ど埋め立てられており、水の流れもないので汚いです。 |
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