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※地図上のマーク、線はおおよその位置を示したものです。
城名 淀古城(別名:藤岡城、淀城)
住所 〒612-8279
京都府京都市伏見区納所北城堀49
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 平城
天守構造 不明
築城主 畠山政長
築城年 室町時代中期
主な改修者 明智光秀、豊臣秀長
主な城主 薬師寺元一、細川氏綱、三好義継、金子某、木村重玆
位置 北緯34度54分36.22秒
東経135度43分8.809秒
地図 淀古城碑
堀跡
【沿革】
江戸時代、元和9年(1623)新たに築城された淀城と区別するために淀古城と呼ばれている。ここでも淀古城とする。

淀古城は、山城の守護・畠山政長が応仁の乱に西軍の畠山義就に備えるため、水陸交通の要街でもあり天然の要害の地である木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸に築城され、守護所を勝竜寺城から当城に移したのではないかと思われています。その後1493年以降に細川氏が山城を掌握すると、守護代級の被官によって守衛され、摂津と河内の抑えの城として使用されています。

この城を舞台に、「第一次淀古城の戦い」細川政元軍vs薬師寺元一軍(永正元年(1504)9月4日~20日)において細川軍の勝利、「第二次淀古城の戦い」織田信長軍vs足利義昭軍(天正元年(1573)8月2日)におて織田軍の勝利 が展開され、天正10年(1582)6月の本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀が淀古城を改修したと記録され、羽柴秀吉と明智光秀の「山崎の戦い」でも利用されています。

この淀古城が有名なのは、秀吉の天下となってから天正17年(1589)3月に、秀吉の弟豊臣秀長が淀古城を改修し、秀吉が側室茶々に与え産所としたことです。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。この城で鶴松が産まれるが、同年9月(この時鶴松生後4ヶ月)には大阪城に移っています。淀殿と呼ばれていますが実はわずか6ヶ月しか在城していなかった。

文禄元年(1592)伏見指月城起工。それに伴い文禄3年(1594)淀古城を破却。その資材の多くを伏見指月城の資材として流用された。慶長元年(1596)には、伏見指月城は慶長大震災により倒壊するが、慶長2年(1597)には伏見城天守完成。伏見城破却後には淀城築城の際にその伏見城から資材が流用された。

明治23年(1890)の『測量の仮製図』によると、堀跡と納所集落の東側に土塁が記載されていたが、現在跡地は宅地化され、耕作地、納所小学校が建っており、唯一妙教寺に石碑が建つのみで、北城堀や小字城堀という地名が僅かにその面影を留めている。淀古城については数多い歴史があるが、近隣の淀城と違って城郭は不明な点が多い。天守に関しても詳細は不明であるが、『駒井日記』には淀古城の天守が存在していた事が記載されている。


【感想】
石垣などが残る駅に近い淀城とは異なり、淀殿所縁の淀古城は淀城よりも北に500mほど離れた妙教寺付近に名残があるのみです。周囲を回っているとそれらしき地名が見られるとともに、近くには堀の役割を果たしていたであろう川(水路)が見られます。
妙教寺では「淀、水上の城下町」という冊子を100円で購入することが出来ます。(無料じゃないのよね…)


登城日 2013年9月7日(土)
LINK 淀古城-Wikipedia
城主家紋 【二つ引両】
(清和源氏足利氏流)
細川氏家紋
※信長に仕える以前
【三階菱に釘抜】
(清和源氏小笠原氏流 )
三好氏家紋

                      

探訪
【淀古城の堀の役割を果たしていただろう川(水路)】 【妙教寺】
淀古城址であるとともに、慶応4(1868)年正月3日夕方,鳥羽伏見戦が勃発し,次第に淀方面に主戦場を移して,4日には妙教寺本堂内陣に砲弾が飛び込み,5日淀の地で激しい戦闘が繰り広げられ,幕府軍は八幡方面に敗走した。妙教寺には今もその砲弾を保存している。
【妙教寺境内にある淀古城と戊申の役砲弾貫通跡の碑】
碑には下記のように刻まれている。
史跡

淀古城址
此所は戦国時代の始細川管領家が築城し薬師堂
与一岩成左通淀君の居城となった淀古城の址である

戊申の役砲弾貫通跡
慶応四年正月四日戊辰役の際東軍砲
弾の飛来で本堂を貫通したその弾痕がある




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