城名 三木城(別名:釜山城、別所城)
住所 〒673-0432
兵庫県三木市上の丸5-45
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡(三木城跡及び付城跡・土塁として)
城郭構造 平山城(丘城)
天守構造 不明(天守と称される土地あり)
築城主 別所則治
築城年 長享2年(1492)前後
主な改修者 前野長康、中川秀政
主な城主 別所氏、羽柴秀吉、杉原氏、中山氏など
位置 北緯34度47分59.53秒
東経134度59分16.31秒
地図 櫓台(天守と呼ばれている場所)
かんかん井戸
西ノ丸跡
平山丸跡
馬場跡
【歴史】
三木城は、室町時代の後期、東播八郡の守護代となった別所則治によって、明応年間(1492~1501)に築かれ、以後別所氏の居城となりました。天文7~8年(1538~1539)に参院の戦国大名尼子詮久(晴久)、天文23年(1544)には三好長逸や三田の有馬氏い攻められましたが、落城は免れています。

天正6年(1578)5代目城主別所長治のとき、天下統一を目指す織田信長の家臣羽柴秀吉に攻められました。秀吉は、三木城を取り囲むように30余の付城を築き、兵糧攻めにしました。
この戦いは三木合戦といわれ、天正6年(1578)4月より1年10ヶ月に及び、籠城の悲惨さから”三木の干殺し”といわれています。天正8年(1580)1月17日、城主一族は領民の命を救うために自刃して三木城を開城しました。その後は羽柴秀吉はじめ家臣の杉原氏、中川氏などが城主として次々と入れ替わりました。慶長5年(1600)の関ケ原合戦後は池田輝政が姫路城主となり、その支城として存続しました。

元和3年(1617)に幕府による一国一城令により廃城となりました。このとき、三木城の資材は明石城の建築部材に使用されたと伝えられています。

当時の規模は、本丸(上ノ丸公園)、西ノ丸(図書館・美術館周辺)、新城・二ノ丸・鷹ノ尾城(市役所周辺)などからなり、東播磨随一の要害でした。また南に位置する雲龍寺周辺も三木城の一角であったと考えられます。
この雲龍寺には別所長治夫婦の首塚があり、毎年1月17日の命日には、長治公を偲んで法要が行われ、兵糧攻めによる飢えから、籠城した兵士が壁土の藁を食べたという言い伝えに習って藁に見立てたうどんが振舞われます。
(城内2つの説明板より編集)


【感想】
城域は宅地化が進み遺構がほとんどないが、縄張図を頭に入れて散策すると何となく地形から曲輪の形状を想像することが出来る。三木城の周辺には三木合戦時に作られた付城が点在するのでそちらと合わせて見学すると三木城攻めの全容を肌で感じることが出来る。


登城日 2013年12月6日(金)
LINK 三木市HP-三木城
三木城-Wikipedia
城主家紋 【右三つ巴】
(村上源氏赤松氏流)
別所氏家紋

                      

探訪

※雲龍寺と正入寺の説明板より加筆(本丸にも縄張図の説明板があるが大ざっぱなのでこちらを掲示する)
【神戸電鉄 三木上ノ丸駅】
駅名は三木上ノ丸であるが、ここは三木城の北側部分にあり、三ノ丸跡になる。
【北側登城道】
三木上ノ丸駅から一番近い登城口。
【三木城北西側斜面】
今は崩落防止のためコンクリートで固められてしまっている
【中嶋丸】
本丸と美嚢川の間の曲輪。美嚢川は、三木城の堀の役目を果たしていた
【模擬土塀】 【本丸跡】
【かんかん井戸】
本丸に残る唯一の井戸で口径3.6m、深さ約25mと大きなものです。ここから城主別所氏愛用の鐙が出土し、現在は雲龍寺に保存されている。
【櫓跡】
天守跡と言われているが縄張図を見るとこの位置は、北西端のため実際は櫓跡と思われる。
【櫓跡にある別所長治辞世の碑】
「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と刻まれている。
【別所長治公像】 【本丸御殿と天守跡】
現在は上ノ丸保育所が建っているがそこに御殿がありその隣に天守があったものと思われる。
【残り石】
本丸やや中央の土壇にある忠魂の碑横にある。何の残り石なのかは不明。
【本丸南側にある稲荷社】 【稲荷社南側】 【絵馬堂内の別所治定奮戦図】
【絵馬堂内の三木城天守復元図】
望楼型の天守が建っていたのであろうか?ただこの絵からすると天守跡とされる場所の位置で描かれている。
【稲荷社】 【本丸と西ノ丸の間の堀底道】
この先に水門口があった。
【水門口】
現在は突当りがナメラ商店街になる。
【西ノ丸跡】
現在は私立図書館、私立堀光美術館、旧三木実科高等女学校校舎が建っている。
【二ノ丸跡】
二ノ丸や新城跡は宅地化され遺構はない。ただ位置関係からするとこの辺りが二ノ丸跡である。遠くに馬場跡に建つ三木市役所と鷹ノ尾城址が見える。
【馬場跡】
現在は三木市役所や文化会館がある。
【雲龍寺】
三木合戦時には三木城内にあったため殿堂や伽藍は焼失。三木城開城後、領主杉原伯耆守は、秀吉に上訴して寺院を再建し、ここに別所長治公夫婦首塚がある。
【雲龍寺説明板】
【別所長治公夫婦首塚】 【正入寺】
正入寺がある場所が、三木城の平山丸跡とされる。
【正入寺説明板】




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