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城名 | 雑賀城(別名:妙見山城) | ||
住所 | 〒641-0025 和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目1-31 |
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入場時間 | - | |||
入場料 | - | |||
指定文化財 | - | |||
城郭構造 | 平山城、丘城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 鈴木重意(佐大夫) | |||
築城年 | 戦国時代 | |||
主な改修者 | - | |||
主な城主 | 鈴木氏 | |||
位置 | 北緯34度11分26.524秒 東経135度10分16.262秒 |
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地図 | 1 | 妙見堂(本丸跡か?) | ||
2 | 千畳敷曲輪 | |||
3 | - | |||
4 | - | |||
5 | - | |||
【歴史】 和歌山市の一部に当たる雑賀地方は、十ヶ郷、雑賀庄、中郷、宮郷、南郷の5ヶ郷からなる。鈴木氏、土橋氏、島村氏、栗村氏、松江氏、宮本氏らが族党をつくり雑賀衆となった。鈴木氏は、代々雑賀孫市を受け継ぎ名乗り、雑賀衆を代表する者であった。雑賀地方は、京に近く戦乱の影響を受けやすかったのに加え、畠山氏・山名氏・大内氏が紀伊国守護となったが、実質的支配ではなかったことが、民衆の自立心を育て、「惣」による合議的政治運営が発達する。平時は耕地や漁猟に従事し、合戦があるたびに団結して力を発揮していた。 また、早くから「一向宗」の信仰が広まったこともあって、精神的なよりどころともなっていた。それ以上に、大坂という近傍にある武力を持った宗教勢力として、同盟的な意味もあったのではないかと推測できる。但し、宮郷・中郷・南郷は「根来寺」の影響を強く受けており、一枚岩ではなかった。 戦争請負という傭兵集団であった雑賀衆ではあったが、日頃から帰依する一向念仏宗の門跡、顕如上人からの「頼みまいらせる」の激文により、本願寺の法灯を護るために石山本願寺へ駆けつけた。 こうして、信長の天下統一をはばんで最後まで抵抗した。この抵抗にシビレを切らした信長は、孫市の根拠地、紀州雑賀討滅の軍を起こした。この時雑賀孫市は顕如を雑賀城の近くにある弥勤寺山(現在の秋葉山)に隠し、本陣を雑賀城とし周りに多くの城砦を築いて、織田信長軍に備えた。 天正5年(1577年)2月、織田信長軍に対して雑賀衆は奇襲戦法で一度は退かすことができた。一度は鉄砲に苦戦し退却した織田信長軍も、天正13年(1585)再び総攻撃をかけた。根来寺宗徒らと迎え撃ったが、二度も大攻勢をうけた雑賀衆は余力がほとんど残っておらず、織田信長に忠誠を誓う事になる。 このとき鈴木重意(佐大夫)は藤堂高虎に謀られて、紀州粉河で自刃したという。 紀州退散後、佐大夫孫市の三男重秀(孫市改め孫三郎重朝)は、のちに豊臣秀長に属し、さらに秀吉直勤となり鉄砲頭に抜擢された。小田原の陣には鉄砲隊を指揮し、朝鮮の役には名護屋に駐屯、一万石余を領したという。 関ヶ原では西軍に属して 伏見城攻めに参加、守将の鳥居元忠を討っている。しかし、関ケ原合戦後浪人となり、のちに水戸徳川家に仕えたとされる。 【感想】 信長を苦しめた雑賀衆の本城とは思えないほどの小さな城であることに驚いた。しかし傭兵集団として戦国の世を渡っていた雑賀衆にとって城はあくまでも居館であって戦う場所ではなかったのでしょうね。 城のすぐ近くには和歌浦があり鉄砲に必要不可欠の硝石もこの港があったことで入手がし易かったのかなと思ったり感慨深い城でありました。 |
登城日 | 2013年12月14日(土) | ||
LINK | Wikipedia-雑賀城 | |||
城主家紋 | 【八咫烏】 (穂積氏鈴木氏族) 鈴木氏家紋 |
【雑賀城址全景】 | 【雑賀城址全景)】 | 【妙見山麓の公園】 ここから登城します。 |
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【登城道】 | 【登城道】 整備された石段もあるがやはりこちらを進みます。 |
【登城道】 | |
【養珠寺の妙見堂】 寺なのになぜか鳥居が? |
【妙見堂】 ここが本丸跡か? |
【妙見堂からの眺望】 和歌浦を一望できます。 |
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【登城道】 尾根ずたいに妙見山の反対側へ。 |
【登城道】 | 【灯台?】 | |
【千畳敷曲輪跡】 | 【千畳敷曲輪先端】 ここに櫓でもあれば物見に最適であろう。 |
【登城道】 | |
【登城道の石段】 | 【登城口】 こちらは住宅街の中に出るので、登り口としては見つけることが難しいと思われる。 |
【和歌山市駅前にある雑賀孫市木像】 |