城名 大河島城
住所 〒720-0201
広島県福山市鞆町鞆10
入場時間
入場料
指定文化財 福山市指定史跡
城郭構造
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 不明
主な改修者 福島氏
主な城主 村上氏
位置 北緯34度22分54秒
東経133度23分0秒
地図 本丸跡
【歴史と沿革】
暦応3年(1340)、瀬戸内海の南朝軍は、新田義貞の弟・脇屋義助を大将として迎えましたが病死したため、北朝軍に伊予・川之江城を攻められ苦境に立ちました。
そこで康永元年(1342)金谷経氏を大将として、土居、得能氏らが川之江城に援助に向かいますが、途中、北朝方の備後勢と燧灘(ひうちなだ)で遭遇し大合戦(鞆合戦)となりますが、おりからの強風で鞆方向へ流されたため、鞆を攻撃し占領、ここ大河島城を拠点としました。
これに対し北朝・足利勢は鞆の小松寺に陣し、10余日に及び激戦が続けられました。
ところが、南朝軍の本拠地・川之江が危ないという報に、金谷大将以下、土居、得能の将は伊予に向かったので、備後服部の将・桑原重信の一族のみこの城に留まり孤軍奮闘しますが、ついに南朝軍に滅ぼされます。

戦国時代になると備後地方は大内氏の勢力下となり、鞆の浦は天文13年(1544)に海賊(村上水軍)の村上吉充に与えられた。鞆には吉充の弟である村上亮康が派遣され本拠は大可島城に置かれ海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。このため亮康は後に「鞆殿」と呼ばれた。

元亀4年(1573年)に織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が毛利氏を頼って天正4年(1576年)から鞆に滞在しており(鞆幕府)、後に鞆城となる鞆要害が築かれ義昭の居館があったとされている。なお、義昭の警護は大可島城の村上亮康があたっていたという。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏に替わり福島正則が備後国を領有すると、鞆城が築城されはじめ、このとき大河島城は城としての役目は終えたと思われます。
その際、大河島は陸続きとなり、福島正則家老・大崎玄蕃が大河島に円福寺を移設、建造開始。
慶長14年(1609)、一国一城令により、鞆城はこのとき廃城となります。慶長15年(1610)、円福寺建立、完成しました。

円福寺の建つ場所は瀬戸の島々や四国が眺望できる景勝地にあり、朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊したり、さらには「いろは丸事件」の談判の際、紀州藩の宿舎に使用されました。
(説明板、鞆の浦新聞等を参照)


【感想】
遺構はほぼありませんが、円福寺の入口付近に伝桑原一族の墓があり、南北朝時代にここが激戦の場所であったことを物語っている様でした。陸続きになる前を想像すると村上水軍の根拠地であったことも納得できます。



登城日 2014年4月28日(月)
LINK
城主家紋 【丸に上の字】
(清和源氏頼信流)
村上氏家紋

                      

探訪
【登城口の一つ】 【城址部分(円福寺入口)】 【伝桑原一族の墓】
【伝桑原一族の墓】 【円福寺本堂】 【円福寺境内より見た鞆城址】




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