城名 鞆城
住所 〒720-0202
広島県福山市鞆町後地536-1
入場時間
入場料
指定文化財 福山市指定史跡
城郭構造 平山城
天守構造 不明(3層3階との伝承あり)
築城主 毛利元就
築城年 天文年間(1532-1554)
主な改修者 毛利輝元、福島正則
主な城主 毛利氏、足利義昭、福島氏
位置 北緯34度23分3秒
東経133度22分52秒
地図 本丸
三ノ丸石垣跡
【歴史と沿革】
元亀4年(1573)に織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が毛利氏を頼って天正4年(1576年)から鞆に滞在しており(鞆幕府)、後に鞆城となる鞆要害が築かれ義昭の居館があったとされている。なお、義昭の警護は大可島城の村上亮康があたっていたという。

天正6年(1578)になると毛利氏は信長と対峙するため鞆を本陣に定め、信長方の尼子氏を滅ぼした際には山中幸盛の首級が鞆に運ばれ義昭と毛利輝元が共に首実検を行ったと伝えられる。義昭は6年間鞆に留まり、天正10年(1582)に津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移ったといわれる。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏に替わり福島正則が備後国を領有すると城郭「鞆城」として大きく整備されることになった。この様子は慶長12年(1607)に当地を訪問した朝鮮通信使の日記に「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」との記されており、その時、建設中だったと知ることが出来る。城代には重臣の大崎玄蕃が置かれた。築城は慶長14年(1609)まで9年余り続いていたが、徳川家康が鞆城の存在を知って立腹し、これを恐れた福島正則は築城を中止して完成していた施設も取り壊して家康に謝罪することになった。地元では元和元年(1615)に発布された一国一城令によって取り壊されたと伝わっている。元和5年(1619年)に正則が広島城を幕府に無断で修理したとして、武家諸法度によって改易され、備後国の福島氏の支配は終焉を迎えた。

鞆城の跡地には西日本の長門毛利氏や筑前黒田氏などの外様大名に対する西国の鎮衛として徳川家康の従兄弟である水野勝成が備後福山10万石の領主として移封され、長子勝俊の居館を鞆城三の丸に置いた。勝俊が福山藩主となって以後は、江戸時代を通して町奉行が置かれていた。
(説明板及びwikipediaより)


【感想】
城郭としての遺構は復元された本丸の石垣と三ノ丸に場所を変えて置かれている程度でしかないが、本丸跡からの眺望は、鞆港を一望できるのでよかった。



登城日 2014年4月28日(月)
LINK Wikipedia-鞆城
城主家紋 【一文字三つ星】
(大江氏流)
毛利氏家紋
【沢瀉】
福島氏家紋

                      

探訪
【鞆城址下より】 【本丸石垣(復元)】 【本丸石垣(復元)】
石垣には刻印が数多く見ることが出来る。
【本丸石垣(復元)】 【本丸石垣(復元)】 【福山市鞆の浦歴史民俗資料館入口】
この部分の石垣は模擬
【本丸跡】
本丸跡には福山市鞆の浦歴史民俗資料館が建つ。
【本丸の石塁】 【鞆城説明板と石垣の石材】
【石垣の石材】 【本丸跡からの眺望】 【本丸跡からの眺望】
鞆港のシンボル常夜灯も見ることが出来る。
【本丸跡から見た大河島城址】 【鞆城三ノ丸移築石垣】
本来は裏の建物の奥にあったものを作る際に道側へと移築し保存している。
【山中鹿之助の首塚】
胴塚は岡山県の阿井の渡にある。
観光~鞆の浦~
【ジャンル】郷土料理
【店名】御舟宿 いろは
【場所】〒723-0004
   広島県福山市鞆町鞆670
【TEL】0849-82-1920
【営業時間】10:00~17:00
【定休日】火曜日

【感想】
注文したのは、鯛漬御膳。
鯛を酒・塩に漬け込んだもので最初は刺身として、残り半分は茶漬けで頂けます。

また、このお店は坂本龍馬が紀州藩との間で起きたイロハ事件の談判の場でもあります。




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