城名 庭瀬城(別名:芝場城、庭瀬陣屋)
住所 〒701-0153
岡山県岡山市北区庭瀬827
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 沼城
天守構造 なし
築城主 三村元親
築城年 戦国時代
主な改修者 戸川達安
主な城主 三村氏、戸川達安、板倉勝喜
位置 北緯34度38分34.54秒
東経133度50分56.92秒
地図
【歴史と沿革】
室町時代の末頃、備中松山の三村元親(家親の子)は備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝場(こうげ)城とも呼ばれた。一体は泥沼地でひじょうな難工事であった。

天正10年(1582)羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、城主の井上有景が800余人を率い守備する。この際、位置的に孤立した場所にあったため、吉川元春、小早川隆景の両名から早々に撤退するように下命されたが、有景はその命令に背き、羽柴軍との間で激戦が交わされました。その際に、井上有景の軍勢は羽柴軍に敗れ、かの地は宇喜多氏の領有となりしばらくの間、無城主となる。

その後慶長7年(1602)宇喜多家重臣戸川肥後守達安が入り、庭瀬藩を立藩し、城を廃して二ノ丸に藩庁を設置し、庭瀬陣屋として整備。そして陣屋と鴨方往来周辺に陣屋町を造成した。延宝7年(1679)庭瀬藩4代目藩主戸川安風が僅か9歳で早世し、嗣子がなかった為庭瀬藩は断絶する。その後20年間は倉敷代官所と藩主が支配するようになる。

元禄12年(1699)板倉重高が2万石で入封し、明治維新まで約170年間続いた。寛政5年(1793)板倉勝喜は城内に清山神社を建て板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祀り歴代の遺品を収蔵した。

城は、自然石の石垣をめぐらした堀も良く残り、沼城の典型を示している。
(説明板、Wikipediaより)


【感想】
城址の周囲は堀に囲まれてるが、堀は至る所にあり、今でものこの場所が沼であった様子をうかがい知ることが出来る。庭瀬城の城域は撫川城の周辺までに及んでいたそうなのでいかに大きな城郭だったかがわかります。



登城日 2014年4月29日(火)
LINK 庭瀬城-Wikipedia
城主家紋 【剣酢漿草】
(清和源氏小笠原氏流)
三村氏家紋
【星梅鉢】
(伊予河野氏後裔)
戸川氏家紋
【板倉菊】
(清和源氏足利氏流)
板倉氏家紋

                      

探訪
【堀と石垣】 【庭瀬城説明板】 【堀】
【堀】 【堀】 【清山神社】
【堀】 【八幡宮】 【常夜灯と船着き場】
船着き場は雁木構造となっている。
【八幡宮・弁天社と城址碑】 【庭瀬城址碑】




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