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城名 | 撫川城(別名:沼城、撫川陣屋) | ||
住所 | 〒701-0164 岡山県岡山市北区撫川423 |
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入場時間 | - | |||
入場料 | - | |||
指定文化財 | 岡山県指定史跡 | |||
城郭構造 | 沼城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 三村家親 | |||
築城年 | 永禄2年(1395) | |||
主な改修者 | 岡利勝、戸川達冨 | |||
主な城主 | 井上有景、戸川達冨 | |||
位置 | 北緯34度38分34.74秒 東経133度50分49.78秒 |
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地図 | 1 | 本丸 | ||
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【歴史と沿革】 撫川(なつかわ)城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。城の平面形状は、東西77m、南北57mの長方形を示し、幅15mの濠がぐるりと巡っています。西側に高さ4m強の高石垣(野面積み)と東側には土塁が現存しています。また北西隅には櫓台と思われる張り出しが見られます。 この城は永禄2年(1559)に備中成羽城主三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。天正3年(1575)に三村氏は、毛利家に滅ぼされ、この城は毛利氏の出城となり、井上豊後守有景がこの城を守備したと伝えられる。天正10年(1580)の備中高松の役には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、王位の城主井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多氏の所有するところになり、以後20年ほど城番を置いていた。 天正14年(1586)頃に、岡利勝が近世的な築城方式を取り入れた野面積の石垣を築き、築城を始めたと伝えられる。 慶長2年(1602)関ケ原の役で東軍につき功績のあった戸川達安(みちやす)が、東にある庭瀬城の初代藩主として29,200石を与えられたことにより、この地域の中心は庭瀬城に移った。 延宝7年(1679)庭瀬藩主4代安風が9歳で早世してしまったため、庭瀬藩が改易され、弟の戸川達冨が名跡を継ぎ、知行地5,000石の交替寄合となり、撫川城址を本丸として御本壇とした。東の庭瀬城址を二ノ丸とし廃城として代官所を設け陣屋とした。 なお、入口に現存する門は、撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられています。 昭和30年(1957)5月、県の史跡に指定されました。 (撫川城址説明資料より) 【感想】 近くにある庭瀬城との関係が、現地ではなぜこんな近くに2つも城があるのだろうと思ったほどでしたが、もとは一つの城だったということで納得することが出来ました。しかし、築城主が父子でわかれているのですよね。きっと、元親が築城した庭瀬城は、撫川城を拡張したということなのでしょう。 北西隅の櫓台石垣は、一番見たい場所が民家であるため入ることが出来ず角を撮影することが出来なかったのが残念ではある。 |
登城日 | 2014年4月29日(火) | ||
LINK | 撫川城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【剣酢漿草】 (清和源氏小笠原氏流) 三村氏家紋 |
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【星梅鉢】 (伊予河野氏後裔) 戸川氏家紋 |
【城址前の公園】 | 【撫川城址入口】 | 【南・西側堀】 | |
【南・東側堀】 | 【撫川知行所総門】(移築現存) | 【撫川城説明板】 左側の木箱内に説明資料あり。 |
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【井戸跡】 | 【撫川城址西側】 | 【撫川城址中央から東側】 中央には三神社が建つ。 |
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【東側土塁】 | 【南東側土塁】 土塁の中でも南東側が一際高くなっている。ここにも櫓があった可能性あると思われる。 |
【南東側土塁上】 | |
【南西隅石垣】 | 【西側石垣】 | 【北西隅櫓台石垣】 |