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城名 | 英賀城(別名:岩繋城) | ||
住所 | 〒672-8085 兵庫県姫路市飾磨区中浜町2丁目42(本丸跡) |
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入場時間 | - | |||
入場料 | - | |||
指定文化財 | - | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 赤松祐尚 | |||
築城年 | 永享年間(1429-1440) | |||
主な改修者 | - | |||
主な城主 | 赤松氏、三木通秋 | |||
位置 | 北緯34度48分10秒 東経134度38分48秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 英賀神社 | |||
3 | 土塁 | |||
4 | - | |||
5 | - | |||
【歴史と沿革】 英賀城は岩繋城ともいわれ、南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変都合の良い城であった。 鎌倉時代には、砦が造られていたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守るが、嘉吉の乱(1441年)によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えた。 天正8年(1580)秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し一大勢力を誇っていた。城内には本丸・二ノ丸をはじめ、一族が、それぞれ大きな屋敷を構えた。また英賀御防をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町・約九百軒)として大いに賑わった。 昭和13年頃までは多くの土塁が残っていたが、今では英賀神社と英賀薬師(城主の墓所・法寿寺跡)の北側だけに残っている。また薬師御防跡は昭和13年頃夢前川の付替工事により消滅した。その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土した。 (本丸跡説明板より) 【感想】 英賀神社が本丸かと思い込んでいたのですが、英賀神社から約1km離れた中浜町の一角に本丸跡之碑があることがわかり歩いていきました。途中の五差路交差点では、大木之濠跡と河下口之跡碑を見つけることができ、内堀跡である中浜地蔵など見ることが出来ました。 歩いて回ると英賀城の規模は大きく、河に囲まれた守りに堅い城ということが実感できました。 |
登城日 | 2014年4月30日(水) | ||
LINK | 山陽電車とめぐる軍師黒田官兵衛 -英賀神社・英賀城本丸跡- |
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英賀城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【二つ引に三つ巴】 (村上源氏季房流) 赤松氏家紋 |
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【角折敷に三文字】 (越智氏族河野氏流) 英賀三木氏家紋 |
※本丸跡説明板「英賀城跡周辺区域復元図」より |
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【英賀城址公園内にある野中口之跡碑】 | 【英賀城址公園内にある模擬天守台?】 | 【英賀神社・北参道】 | |
【英賀城土塁跡】 英賀神社の北側に残る |
【英賀城土塁址】 | 【英賀城土塁址】 | |
【英賀城土塁碑】 | 【英賀神社・南参道(正面)】 | 【英賀神社・神門】 | |
【英賀神社・拝殿】 | 【英賀神社・拝殿内】 拝殿は絵馬堂も兼ねている。 |
【英賀神社・文学碑】 英賀神社東側にある碑で司馬遼太郎が書いた小説「播磨灘物語」と刻まれてる。 |
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【英賀城大木之濠跡と河下口之跡碑】 英賀保農協前(五差路)交差点にある。 |
【中浜地蔵(牛地蔵)】 ここは英賀城の内堀跡になる。 |
【英賀城本丸之跡碑】 | |
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【英賀城本丸之跡碑】 | 【水尾川】 城址東側を流れる。天然の濠として利用された。 |
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