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城名 | 竹山城 | ||
住所 | 〒707-0417 岡山県美作市下町 |
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入場時間 | - | |||
入場料 | - | |||
指定文化財 | 美作市指定史跡 | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 不明 | |||
築城年 | 南北朝時代 | |||
主な改修者 | - | |||
主な城主 | 新免氏 | |||
位置 | 北緯35度6分34秒 東経134度19分18秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 西ノ丸跡 | |||
3 | 太鼓丸跡 | |||
4 | 馬場跡 | |||
5 | - | |||
【歴史と沿革】 竹山城は太平記にその名が出てくる中世後期の吸吉野郡第一の山城である。 城は東を大手とし、西を搦手とした。山の姿は北高南低、巽の方は竹林が繁茂しており竹山の名がついた。東から本丸と西ノ丸、その間に馬場、西ノ丸の西方に坊主ヶ丸、本丸のの東方に太鼓丸がある。段郭は東宝に二ヶ所、馬場の北方に三段ある。堀切は坊主ヶ丸の西に一ヶ所、井戸の跡は東北西の三ヶ所、門の跡は二ヶ所である。戦国山城の立地条件は①天然の要害、②重要地点(因幡街道を見下ろす)、③攻撃の拠点、竹山城はこの三つの条件を満たした山城である。 大原町一帯は山陽側の赤松、山陰側の山名両氏の勢力争いが行われた土地である。新免伊賀守貞重は山陽勢力赤松、浦上、宇喜多と結び、明応2年(1493)山王山城から移ってきて、約二万石を支配したという。家臣を周辺の諸城要所に配置し、その後、宗貞、宗貞の三代180年間、関ケ原敗戦まで在城した。武蔵の祖父平田将監、父平田無二斎はこの城の家老であり、剣道指南役としても仕えていた。 標高430mあるこの城は町内随一の展望台であり、眼下に宿場町の面影を残す家並と、南に武蔵生誕地宮本を望み、遠く東に美作富士と呼ばれている日名倉山、北東には岡山県最高峰後山が望まれる。 (山頂説明板より) 【感想】 竹山城は車であれば一気に上まで登れてしまいます。 徒歩だと急峻な舗装道路を登っていくことになり、日陰もなくかなりきついものがあります。 山頂に行ってみれば遺構と言えば曲輪がいくつかあるくらいで電波塔だらけで興ざめしてしまう。しかし、見晴らしはいいのですが草が成長してしまうと良く見えません。 |
登城日 | 2014年5月2日(金) | ||
LINK | 美作観光ナビ-竹山城跡 | |||
城主家紋 | 【三つ巴】 (村上源氏赤松氏支族) 新免氏家紋 |
【竹山城遠景】 | 【竹山城登城口】 | 【竹山城跡碑】 | |
【馬場跡】 | 【説明板】 | 【馬場からの眺望】 | |
【馬場から見た曲輪跡】 | 【太鼓丸跡】 | 【馬場からの眺望】 | |
【西ノ丸跡】 | 【麓にある新免家の墓】 竹山城主の新免家と関係があるのであろう。 |
【麓にある墓石群】 苔むした墓石、時代を感じさせる。 |
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【宮本武蔵駅】 | 【武蔵・お通・又八の像】 | 【讃甘(さのも)神社】 武蔵の二刀流(二天一流)は、この神社の神主の太鼓のバチにヒントを得て編み出したものだと伝えられる。 |
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【水車のある風景】 | 【宮本武蔵生誕地碑】 | 【宮本武蔵供養塔】 同じ地域に墓があるのに供養塔もある。」 |
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【宮本武蔵宅跡】 | 【武蔵神社】 | 【戦気の碑】 中唐の詩人白楽天の詩の一句「寒流帯月澄如鏡」と刻まれている。 |
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【武蔵神社】 | 【武蔵神社・拝殿】 | 【武蔵と両親の墓】 左が宮本武蔵の墓、右が武蔵の両親の墓。 |
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【平尾家】 | 【武蔵の里五輪坊】 ここに資料館も隣接している。 |
【宮本武蔵の像】 |