城名 利神城(別名:雲突城、平福城)
住所 〒707-0417
兵庫県佐用郡佐用町平福
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 連郭式山城
天守構造 三重(非現存)
築城主 別所敦範
築城年 貞和5年(1349)
主な改修者 池田由之
主な城主 別所氏、宇喜多氏、池田氏
位置 北緯35度2分48.7秒
東経134度22分45.38秒
地図 天守跡
本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
馬場跡
【歴史と沿革】
利神城は貞和5年(1349)、赤松一族の別所敦範が白旗城の北の守りとして利神山頂に城を築いたことに始まる。その後200余年別所氏が居城とした。

一時山名氏が領したが、4代目の別所治定が城主に復帰し、羽柴秀吉の中国攻めで落城した。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、姫路城主池田輝政の甥、池田由之が平福領2万3300石の領主となった。由之は標高373mの利神山上に5年の歳月をかけて広壮な城郭を築き、山麓には城主屋敷、武家屋敷を配し、街道沿いに町人地を設けるなど、城下町を整備した。利神山上の3層の楼閣は、あたかも雲を衝くような威容から、雲突城(うんとつじょう)とも呼ばれた。

由之の後、輝政の弟長政、輝政7男輝興と代わり、寛永8年(1631)輝興が赤穂に移り、平福藩は廃藩となって利神城も廃城となった。

池田氏の移封後、平福の地は旗本松平康朗5000石の所領となり、陣屋(平福陣屋)が築かれ明治にいたった。

現在、山頂には本丸、二ノ丸、三ノ丸、大坂丸などの石垣群が旧態を保って残っているが、現在は崩落の危険があるため登城は控えて欲しい。



【感想】
登城は自己責任でできるようだが、遠くから見ても山頂の石垣の崩れ方はわかるため、登城は控えた。その分、麓の館跡に残る石垣などを見ることが出来た。
山頂の遺構は、このままでは風雨等により浸食が進むので、早く保存整備をしてほしいところである。



登城日 2014年5月2日(金)
LINK 佐用町HP-利神城と黒田官兵衛
利神城-Wikipedia-
城主家紋 【右三つ巴】
(村上源氏赤松氏流)
別所氏家紋
【揚羽蝶】
(清和源氏頼光流)
池田氏家紋

                      

探訪

※「時を越え戦国の地へ 官兵衛ゆかりの佐用「三城」をめぐる」佐用町観光協会パンフレットより
【平福駅ロータリー内にある矢穴のある石の説明板】 【矢穴のある石】 【利神城遠景】
道の駅宿場町ひらふくより
【利神城址西側】
手前が三ノ丸跡その上段は天守跡となる。
【利神城移築城門(前側)】
光勝寺の山門は利神城にあったものと伝えられる。
【利神城移築城門(裏側)】
【平福御殿屋敷跡の枡形北側石垣】 【平福御殿屋敷跡の枡形北側石垣】 【平福御殿屋敷跡の枡形北側石垣】
【利神城登城口】
このネットを外して登ることになる。現在は崩落の危険性があるため登城は控えて欲しいとのこと。登る場合は自己責任となる。ネットは必ず元に戻すこと。
【平福御殿屋敷跡の枡形南側石垣(西側)】
平福御殿屋敷跡の枡形北側石垣と対をなし、枡形を構成していたと思われる。枡形の先は利神城の登城口ということになる。
【平福御殿屋敷跡の枡形南側石垣(東側】
枡形南側石垣は道で分断されている。
【枡形南側石垣】
分断されている部分が道なので虎口のように見えてしまう。
【枡形南側石垣】 【平福御殿屋敷跡の南端石垣】
【平福御殿屋敷跡の南端石垣】 【平福御殿屋敷跡の南端石垣】
この石垣の手前側は堀跡。
【空から見た利神城】
パンフレットより



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