城名 大物城(別名:尼崎古城)
住所 〒660-0823
兵庫県尼崎市大物町2丁目
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 細川高国
築城年 大永6年(1526)
主な改修者
主な城主 細川氏、荒木氏
位置 北緯34度42分56秒
東経135度25分30秒
地図 大物主神社
【歴史と沿革】
戦国時代の大永6年(1526)に細川高国が、西摂支配のため海上交通の要所尼崎の大物に築いた城。細川両家の抗争で、細川澄元が堺を拠点としていたのに対して、高国は尼崎を拠点として勢力を蓄えて対抗した。高国が大物の廣徳寺で自刃した後も、細川晴元と反晴元派の抗争において堺と尼崎の重要性には変化がなかった。

その後、当地はしばしば戦場となり、天文2年(1533)から元気元年(1570)にいたる37年間で、尼崎城そのものでの攻防は明らかではないが、この地が在陣地となること28回、放火7回をかぞえる。そのうちの18回は、天文2年(1533)大物での一向一揆との争いをはじめ、永禄元年(1558)三好長慶が芥川城から尼崎城へ入城したさいの合戦など、大物と東町、東町と西町との間(近世の尼崎城地)といった戦国時代の町場に集中している。

大物城に関しては旧位置が明確でないものの、江戸時代の尼崎城本丸北東方に古城跡と記された絵図があり、そこに存在したと推定される。規模・施設のほどは『下間(池田)家系譜』によれば本丸と二之丸があって、天守はなく櫓ばかり堀は五十間四方にすぎなかったと伝えられる。
(apedia Web版尼崎地域史辞典より)

戦国期、この地方を領有していた荒木村重が信長を裏切り、有岡城に籠城し、その後逃亡した先がこの大物城である。この時の城主は、荒木村重の嫡男村次であった。



【感想】
尼崎城というと荒木村重のイメージが強かったのですが、色々調べると荒木時代の尼崎城は実際はこの大物城であったようです。ただ、大物城がこの場所にあったという根拠は周った場所には残っていませんでした。大物主神社にも義経についてのことは書いてあるのですが、戦国期の記載はありません。ただ阪神大物駅の北側西にある交番横に「大物崩れ」という碑が建っているようです。ただ、この碑はもっと南東の大物児童公園内あったそうです。



登城日 2014年5月3日(土)
LINK apedia Web版尼崎地域史辞典-尼崎城築城-
大物崩れ-wekipedia
城主家紋 【二つ引両】
(清和源氏足利氏流)
細川氏家紋
【牡 丹】
(藤原北家秀郷流)
荒木氏家紋

                      

探訪
【大物主神社】 【大物主神社拝殿】 【義経・弁慶隠家跡】
頼朝から追討された主従が西国へ船出するために大物主神社東側にあった7軒長屋に逗留したという口伝を保存するために建てられた。
【大物二丁目】
この辺りが城址になる。
【大物二丁目】 【大物二丁目】
【大物二丁目】 【深正院】
大物二丁目ある寺院、尼崎市城内史跡となっている。



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