城名 田辺城(別名:舞鶴城)
住所 〒624-0853
京都府舞鶴市字南田辺15-22
入場時間 田辺資料館
開館時間:午前9時~午後5時
休館日
月曜日(祝日の場合はその翌日)
12/29~1/3
入場料 無料
指定文化財 市指定史跡
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 不明
築城主 細川藤孝
築城年 天正7年(1579)
主な改修者 京極氏、牧野氏
主な城主 細川氏、京極氏、牧野氏
位置 北緯35度26分44.81秒
東経135度19分51.51秒
地図 天守台跡
模擬城門(資料館)
模擬櫓(彰古館)
土居跡
【歴史と沿革】
田辺城は舞鶴城とも称され、その築城は戦国群雄の中で智将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎)が、天正8年(1580)8月、織田信長より丹後国をあてがわれ、子忠興とともに縄張りしたことに始まり、天正十年代に完成したと言われている。

慶長5年(1600)7月、石田三成方15,000騎の大軍に攻められた幽斎は、わずか500人の兵で田辺城に籠城して50余日を戦った。古今和歌集の秘伝の継承者であった幽斎が八条宮仁親王の使者に古今相伝の箱に和歌一首を添えて献上した、世に言う古今伝授は籠城のさなかのことである。その後、忠興は関ヶ原合戦の功により豊前中津に加封され、代わって京極高知が入国、元和8年(1622)高知の遺命により丹後国を三分し、庶子の高三が城主となって三万五千石を領し田辺藩が成立した。寛文8年(1668)京極氏が但馬豊岡に移封のあと牧野親成がこれに変わり、以後牧野氏が明治2年(1869)の版籍奉還まで代々田辺藩主として在城した。

城は、細川氏の築城後、京極氏、牧野氏が拡張・改修を行い、ほぼ現在の舞鶴公園にあたる本丸を、二ノ丸・三ノ丸・外曲輪とそれぞれの堀が囲む輪郭形式の平城として整備され、さらに東の伊佐津川、西の高野川、南の低湿田、北の湾海は総濠としての役割をはたした。

なお、舞鶴の地名は、明治2年に藩名が城号をとって舞鶴藩と改称されたことに由来しており、この公園内には築城当時の天守台石垣をはじめ、本丸、二ノ丸石垣や幽斎ゆかりの心種園などの遺構がいまに残り往時を偲ばせている。
(公園内説明板より)



【感想】
舞鶴駅から歩いて行くと二ノ丸という交差点がありその先に本丸跡に作られた城址公園があります。模擬ですが城門と櫓があり見た目は立派。公園内には発掘の際に出てきた天守台が復元されています。土居跡もあるのですが、植込みがされており何だかよくわかりませんでした。城門内には資料館があるのですが展示点数は少なめでちょっと残念でした。


登城日 2015年5月1日(金)
LINK まいづる観光ネット田辺城資料館
田辺城-Wikipedia-
城主家紋 【九曜】
(清和源氏足利氏流)
細川氏(上守護家)家紋
【丸に三つ柏】
(紀氏流/蘇我支族)
牧野氏家紋

                      

探訪

※田辺城城郭復元図より(加筆あり)
【田辺城址】 【模擬櫓(彰古館)】 【模擬城門(資料館)】
【模擬城門(資料館)】 【城門でお出迎するゆうさいくん】 【説明板】
【模擬城門(資料館)】 【模擬櫓(彰古館)】 【本丸井戸跡(復元)】
【模擬櫓台】 【城址碑】
城址碑には幽斎の句が刻まれている。また、背後は「古今伝授遺蹟」
【心種園】
【城址公園東側堀跡】 【土居跡】
植え込みにされてしまっていて、指標がなければわからない。。
【公園内より模擬城門と櫓】
【天守台跡】
古式穴太積み技法によって造られている。。
【牧野家紀恩碑】 【二ノ丸石垣】
関西電力前に展示されている。



Back



inserted by FC2 system