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城名 | 多聞山城(別名:多聞城) | ||
住所 | 〒630-8113 奈良県奈良市法蓮町1416-1 |
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入場時間 | 城址碑は学校の敷地なので中に入れない場合もある。 | |||
入場料 | - | |||
指定文化財 | - | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | 不明(推定4層) | |||
築城主 | 松永久秀 | |||
築城年 | 永禄3年(1560) | |||
主な改修者 | - | |||
主な城主 | 松永久秀、他織田家臣 | |||
位置 | 北緯34度41分39.98秒 東経135度49分53.19秒 |
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地図 | 1 | 城址碑 | ||
2 | 五輪塔など | |||
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5 | - | |||
【歴史と沿革】 奈良県奈良市多門町にあった平山城。戦国時代の城郭建築で、「多聞櫓」の名の由来になった松永久秀の居城。 永禄3年(1560)下克上を代表する人物、松永久秀によって眉間寺山に築かれた。この地は、奈良を制圧するとともに、京都や堺へも通じる要衝であった。久秀は三好長慶の家臣で、三好氏が主家の細川氏をしのいで畿内を支配するようになると、久秀も大和一円に勢力を張るようになった。 永禄10年(1567)筒井順慶は久秀と不仲になった三好三人衆と結束して多聞山城を攻めたが、久秀はこれを撃退した。元亀2年(1571)織田信長に反旗をひるがえし、翌年多聞山城は筒井順慶軍の包囲を受けたが、和睦し争乱にはいたらなかった。信長と将軍足利義昭との抗争が起こると足利方について再び信長に反旗を翻し、天正元年(1573)信長に攻められ、多聞山城は落城した。多聞山城には明智光秀、佐久間信盛らが入ったが、その後信長は筒井順慶に多聞山城の破却を命じた。 多聞山城は壮大・華麗な城郭で、信長が安土城築城の参考にしたとも伝えられている。現在、多聞山城跡は市立若草中学校の敷地となっており、正門を入ったところに「多聞山城跡」の石碑が建っている。 【感想】 GWということもあり多聞城址のある若草中学校は完全に閉まっており、城址碑は望遠による撮影となった。校門の右の高台を登れば入れますが、五輪塔の撮影のみで引き返しました。多聞城址の西側には聖武天皇陵がありますがその間には遺構が見られる場所があるそうです。帰ってきてから分かりました。 |
登城日 | 2015年5月2日(土) | ||
LINK | 奈良きたまち~歴史のモザイク~信長も嫉妬した多聞山城 | |||
多聞山城-Wikipedia- | ||||
城主家紋 | 【蔦】 松永氏家紋 |
【佐保川付近から見た多聞山城址】 | 【多聞山城址】 城址の大部分は若草中学校になってる。 |
【城址碑】 中学校の駐車場にある。 |
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【多聞城址碑】 | 【多聞城址関連の五輪塔】 校門右手高台の上に集められている。 |
【多聞城址から見た東大寺大仏殿】 松永久秀が焼討ちした大仏殿がこんなに近いとは、ここに来て実感がわきました。 |
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【転害(てがい)門】(国宝) 中世の修理は受けているが東大寺伽藍における天平時代の唯一の遺構。 |
【転害(てがい)門】(国宝) | 【正倉院の門】 正倉院の外構見学は平日午前10時~15時まで。管理は宮内庁になる。 |
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【東大寺講堂跡】 大仏殿の裏手にある。 |
【大仏殿】 | 【大仏殿】 | |
【大仏】 訪れた時聖武天皇祭をやっており正面からの撮影が出来なかった。 |
【大仏】 | 【虚空蔵菩薩】 | |
【廣目天】 | 【東大寺模型】 | 【多聞天】 | |
【南大門】(国宝) 天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したもの。 |
【吉城川で涼をとる鹿】 訪れた日は5月でしたが暑かったので鹿たちも川で涼しんでいました。 |
【吉城川で涼をとる鹿】 |