城名 聚楽第(別名:聚楽亭、聚楽邸、聚楽城、聚楽館)
住所 〒602-000
京都府京都市上京区中立売通ほか
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 平城
天守構造
築城主 豊臣秀吉
築城年 天正15年(1587)9月
主な改修者 豊臣秀次
主な城主 豊臣秀吉、豊臣秀次
位置 北緯35度1分26秒
東経135度44分52秒
地図 東濠跡
西濠跡
南濠跡
本丸跡
北丸跡
【歴史】
聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として天正14年(1586)2月に着工され、翌天正15年(1587)9月に完成した。九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。天正16年(1588)4月14日には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。

天正19年(1591)12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に譲ったあと聚楽第は秀次の邸宅となった。翌、天正20年(1592)1月には再度後陽成天皇の行幸を迎えている。短期間に同じ場所に2度も行幸が行われたのは稀有なことである。文禄3年(1594)ごろには北の丸が秀次により増築された。

しかし、秀吉は文禄4年(1595)7月に秀次を高野山に追放して切腹させ、秀次の邸宅となっていた聚楽第を翌8月以降、徹底的に破却した。なお、後に御所に参内するための利便上、新たに豊臣家の京屋敷を建設する必要に迫られ、現在の仙洞御所の地に「京都新城(後に北政所が居住)」が設けられた。

聚楽第の破却に際し建物の多くは伏見城内へ移築されたとされる。西本願寺の飛雲閣、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関、山口県萩市常念寺の山門なども、聚楽第から移築されたという伝承があるが、いずれも伝承の域を出ず、今のところ聚楽第の遺構と認められている建造物は大徳寺の唐門(通常非公開・撮影禁止)だけである。

【感想】
聚楽第は徹底的に破却されてしまったので遺構はないだろうと思っていましたが、近年住宅地内の建て替え時などに発掘調査が行われ石垣などが発見されているので、現地に行ってみると城域だとされる場所には碑が点々とあり、聚楽第の規模などを把握することが出来る。
地形も堀の痕跡を残す落し込みも見られ往時を偲ぶことが出来ます。


 
登城日 2015年11月3日(火)
 LINK 京都市上京区HP-聚楽第址-
聚楽第-Wikipaedia-
城主家紋 【五七の桐】
豊臣氏家紋

                      

 探訪

※聚楽第復元案図より(加筆有り)
【@聚楽第址の碑】
碑文は「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」と刻まれています。
【A聚楽第 東濠跡】
左のハローワーク建築時に金箔の張られた瓦が発掘された。
【B梅雨の井】
「豊臣秀吉が茶の湯の折に愛用した名水」という伝承があります。この地点での発掘は行われておらず検証はされていませんが、当時の記録にも記述がなく、この部分は本丸の堀跡に当たるため本丸の井戸が堀の中にあることは矛盾するため、聚楽第の遺構としての可能性はかなり低いそうです。この扱いですからね。
【C聚楽城鵲橋旧跡の碑】
松永稲荷大明神の一角に碑があります。本丸の堀に架かっていた鵲(かささぎ)橋の跡です。
【C聚楽城鵲橋旧跡の碑】
文字は非常に見辛くなっている。
【D聚楽第南外濠跡の碑】
松林寺の前にあります。
【D松林寺の境内の落込み】
落込みは約1.5mあり、この部分が聚楽第の南外濠だったことを示しています。発掘調査委の際に外濠を埋めるために使われた土が出土しています。
【E聚楽第本丸南堀石垣出土地】
2012年に行われた上京区知恵光院上長者町東南角の京都府警察本部西陣待機宿舎建て替え工事に伴う発掘調査で東西約32m、高さ2.3mの石垣が出土しました。
【E聚楽第本丸南堀石垣出土地】
発掘された石垣は埋め戻されて、写真の赤線枠の真下にあります。
【E聚楽第本丸南堀石垣出土地】
出土した上には京都府警察本部西陣待機宿舎が建っています。
【F此付近 聚楽第址の石碑】
2008年3月から人目がつきやすい正親小学校の角地に移動されています。現在建っているこの地は本丸西堀跡になっています。
【平安宮大蔵省跡】
正親小学校の角地には平安宮の大蔵省跡の碑もあります。
【唐津小笠原藩邸跡】
正親小学校の角地には唐津小笠原藩邸跡の碑もあります。
【G聚楽第外堀跡の落込み】
土屋町通中立売下ルの傾斜のきつい坂道は古くから聚楽第外堀があった痕跡による落込みと言われています。
【飛雲閣】
西本願寺にある飛雲閣は聚楽第の遺構と伝えられています。しかし、この飛雲閣は通常非公開です。




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