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城名 | 宮津城 | ||
住所 | 〒626-0041 京都府宮津市鶴賀 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | − | |||
築城主 | 細川藤孝(幽斎) | |||
築城年 | 天正8年(1580) | |||
主な改修者 | 京極高広 | |||
主な城主 | 細川藤孝、細川忠興、京極氏、永井氏、阿部氏、奥平氏、 青山氏、本庄松平氏 |
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位置 | 北緯35度32分12秒 東経135度11分51秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 太鼓門 | |||
3 | ガラシャ像 | |||
4 | 復元石垣 | |||
5 | 一色義清自刃の地(一色稲荷社) | |||
【歴史】 織田信長の命で丹後を領した細川氏(幽斎・忠興)は天正8年(1580)8月宮津に入り、急いで浜手新城更に城下の建設を進めた。慶長5年(1600)忠興が会津上杉氏征討に出陣中、大阪方は丹後に兵を向けたので、幽斎は宮津城を自焼して田辺(舞鶴)に籠城した。 関ケ原戦後忠興は豊前中津に移封、あとへ京極高知が入部して田辺を居城とした。元和8年(1622)その没後丹後を三分して嫡子高広が宮津城主となった。彼は十数年を費やして城郭・城下を整備したがその際細川氏時代の縄張りがどの程度踏襲されたかは明らかではない。 京都府教育委員会は昭和55年の二ノ丸東門(外不明門)北方の第一次調査に続いて同年11月及び昭和56年3月に、本丸東門(内不明門)。】二ノ丸東門付近の第二次調査を実施した。その結果、二ノ丸東門の外に三ノ丸に通じる土橋のほか内堀石垣、二ノ丸内の水道と思われる石組溝等の遺構を検出した。 【感想】 城跡は宅地開発され、遺構は殆どないが、案内板も建っているのでポイントは抑えることが出来る。ただその案内板まで知っていないといけない可能性がある。観光客は少ないため何のか駅のバス停付近に観光案内所があったが連休初日というのに開いてなく情報を得られなかった。 行かれる際には情報を得てから行った方が良い。 |
登城日 | 2016年3月19日(土) | ||
LINK | 宮津城-Wikipaedia- | |||
城主家紋 | 【九曜】 (清和源氏足利氏流) 細川氏家紋 |
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【四つ目結】 (宇多源氏佐々木氏流) 京極氏家紋 |
※市役所にある案内板より(加筆有り) |
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【@丹後宮津城跡説明板】 | 【@丹後宮津城跡説明板】 | 【A石遺構】 後方の巨石は本丸鉄門も袖石垣の一つ。その前の窪みのある石は大手橋橋脚の礎石、その左の横にある波状の石柱はこの北側波止場の船繋ぎ石である。 尚、この場所は宮津城二ノ丸の北西部に当たる。 |
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【B細川ガラシャ像-祈り-】 市役所横の大手川ふれあい広場(宮津城跡対岸)に建てられ、宮津城を眺めている。 |
【C宮津城の復元城壁】 城壁下の石垣は現存の箇所もあるようです。 |
【D太鼓門(移築現存)】 現在は宮津小学校の正門になっている。 |
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【C宮津城の復元城壁】 | 【E一色義清自刃の地(一色稲荷社)】 | 【E一色義清自刃の地(一色稲荷社)の石碑】 | |
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【F大手門跡】 写真がボケてしまっていたのでストリートビュー(Google)より |
【G本丸跡】 | − |