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城名 | 豊岡城(別名:亀城、木崎城、城崎城) | ||
住所 | 〒668-0042 兵庫県豊岡市京町 神武山公園 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 梯郭式山城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 山名宗全(持豊) | |||
築城年 | 慶長9年(1604) | |||
主な改修者 | 宮部継潤 | |||
主な城主 | 垣屋氏、宮部氏、杉原氏、京極氏 | |||
位置 | 北緯35度32分23秒 東経134度49分15秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 天守台跡 | |||
3 | 萩の丸跡 | |||
4 | 笠の丸跡 | |||
5 | − | |||
【歴史】 伝承では15世紀中頃、九日市に守護所を置く但馬国守護大名山名宗全(持豊)により、此隅山城の出城として、標高49mの神武山に木崎城(城崎城)が建築された。山名氏のもとでは、山名四天王に数えられた垣屋氏が配された。戦国末期、垣屋氏が事実上の但馬実力者となるに及び、この城は但馬支配の中心拠点となった。 天正8年(1580)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国の山名氏が一旦滅ぶと、秀吉配下の宮部継潤(善祥房)が入城。宮部氏は、城崎を豊岡と改め、城を改築した。このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった。 宮部氏の次に木下助兵衛尉。明石与四郎、福原右馬之助と続き慶長2年(1597)杉原長房に至った。 承応2年(1668)、三代・重玄に嫡子なくして無子改易となり、一旦廃藩となったため、豊岡城は廃城となったが、本丸・萩の丸・笠の丸の他、天守台などの遺構が残された。 寛文8年(1668)、京極氏が入封し、再度豊岡藩が置かれるが、城主大名の格式ではなく、山城の維持費もかかるため、神武山の麓に陣屋(豊岡陣屋)が建築され、藩政は陣屋にて行われた。このときも山上の遺構は保持され、陣屋及び城下町の象徴となった。 現在、豊岡城跡一帯は神武山公園として整備された他、笠の丸跡には市上水道神武山排水池(現在は撤去されている)が建設されてしまい改変が著しい。また、城下も宅地開発が進み他の曲輪は消失している。そのため昔を偲ぶことは難しい状態である。 (説明板及びWikipediaより内容を編集) 【感想】 本丸の天守台跡付近にある「元禄15年豊岡城下絵図」を見ると曲輪も多く立派な城だったと想像が出来るのですが、登城口にある「神武山公園『歴史・文学のこみち』案内板」を見ると東側にあったであろう曲輪の多くが消失していることもわかる。公園整備や上水道の施設の建設もあって城としての遺構は改変され曲輪の形状さえも分からなくなっている残念な城址でした。 |
登城日 | 2016年3月20日(日) | ||
LINK | 但馬情報特急-豊岡城- | |||
出石城-Wikipaedia- | ||||
城主家紋 | 【七 曜】 (桓武平氏土屋氏流?) 垣屋氏家紋 |
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【橘菱】 (桓武平氏土肥氏一族?) 宮部氏家紋 |
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【萩の丸】 (桓武平氏貞衡流) 杉原氏家紋 |
※天守台跡にある「元禄15年豊岡城下絵図」より |
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※登城口にある「神武山公園『歴史・文学のこみち』案内板」より(編集・加筆有り) |
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【豊岡城跡】 間違えて登った日吉神社より |
【@の登城口】 | 【登城道】 この辺りにはいくつかの曲輪が数段あったと思われるが消失している。 |
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【A腰曲輪跡か】 腰曲輪と思える箇所に上水道配水池が設置されている。 |
【B腰曲輪跡か】 本丸東側下に位置する。 |
【京極高住の碑】 | |
【C本丸跡】 | 【本丸からの眺望】 | 【C本丸跡】 | |
【C本丸跡】 | 【D天守台跡】 ここに説明板「元禄15年城下絵図」がある。 |
【E萩の丸跡】 この場所は狭く改変されてると思われる。 |
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【F笠の丸跡】 以前はここに市上水道神武山配水池があった。 |
【F笠の丸跡から見た本丸方向】 | 【F笠の丸跡】 市上水道神武山配水池があった場所より一段引くなているが元禄15年の絵図にはこちら側に曲輪はないので改変は有るもののこちらも笠の丸の一部だと思われる。 |
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【竪堀跡】 笠の丸から南側に向けて竪堀があった。その場所が公園の階段によって改変されている。 |
【Gの登城口】 | 【Hの登城口】 |